Bunkamura ル・シネマに強制収容所と偽語学を題材にした映画をみにいった。

焦点の定まらないストーリーテリングだった。主人公のユダヤ人の葛藤には踏み込まないいっぽうで、収容所につめかけるナチスに対しては、かれらの小市民的な悩みに不適切によりそう脚本のようにみえた。悪の凡庸さが主題として前景化してしまっていて、しかもそれが製作者たちの意図に沿っていないことも明らかだった。技術的に未成熟であることが悪く目立ってしまっていた。生きた人間というよりも、機能をもった自動人形が動いているのをみたような気分になる。

非日常的な思索にいざなおうとする奇妙な力をもった映画ではあった。支離滅裂もここまで極まると、どうしてこのような作品がポシャらずに完成したことにされてしまったのかに興味がある。

すぐれた編集的態度がしめされた瞬間はただひとつあった。それはクラウスがレザを収容所から救出して、そのうえ顔もあわせず爽やかに別れを告げて去っている終盤のシークエンスである。それまでの推移からして、ウェットな演出がともなうのが自然とおもわれたところを、いさぎよくカットしてシーンを終えるのは英断である。とはいえそれも、テヘランにたどり着いてはじめてペテンを知って狼狽するクラウスを蛇足としかいいようのないやりかたで続けて見せられたことによって、技術ではなく偶然の効果であったことは明らかである。

最終シークエンスは、昨日おぼえたばかりのようなフランス語を話す中年男性アメリカ人に向けて、収容所の 2480 人の仲間たちの名前をレザがボソボソと話す。ただ名前をつぶやいているだけの様子を、テント中の人間が息を呑んで見守るという不自然きわまりない演出は滑稽味にみちていて、ほとんど哄笑すれすれのところまで押し出された。狙う効果はあきらかに感動の涙であるというところが、まったく滑稽であった。

シリアスな脚本であるのに、どうしてこんなに不適当な後味を与えられたか。それはおそらく制作スタッフたちが、あさはかな誠実さと深刻な不誠実さのあいまで浮足立っているからに違いない。不具の弟を残してほとんど自殺まがいの死を遂げるロッソ兄弟の兄は、レザに葛藤の種を植え付けて脚本的にはうってつけの駒である。語学の習得に熱心なクラウスが、レザの偽授業のほかにはいっさい正統ペルシア語へのアクセスを持たないというのも、脚本に奉仕する人物造形のたまものである。市民の内的生活への信念をいっさい欠いたプロダクションとみざるをえない。

しかし、それでも映画は完成してしまったのである。あまつさえ、極東にまで出張して上演している。これはまったく、映画ビジネスというものの奇妙な性質を体現した、奇妙な現実そのものである。