イーストウッドの監督作を観た。1993年。
冒頭のシークエンスは、真っ白のタンクトップを着たケヴィン・コスナーが芝生に寝そべった様子を映す。汗ばんだ右腕を頭の後ろに回して、眩しい日差しに目をつむっている。『出てこいキャスパー』のお面がかたわらにあって、ドル紙幣がぱらりぱらりと風にはこばれてくる。
子供に優しく暴力を苛烈に否定するブッチは、いくら柔和であろうとも脱獄犯というレッテルからは逃れられない。人質のフィリップをおびえさせたことへの制裁として、脱獄仲間を淡白に射殺したほかは、ほとんど軽犯罪しか犯さない。追跡を振り切るための危険運転をした。車を盗んだ。しかし息子を軽々しく殴りまわす黒人農夫のありように静かな怒りを燃やして銃口を向ける姿は、本心の殺意はなくともフィリップの目にはあまりにも危険に映った…。
観客はブッチの素性を知る。フィリップのやりたいことはなんでもやらせて、なにが起こってもそれが運命といわんばかりにすべてを受け止める。曲がった考えは毅然として持たない。こうありたいとおもう人間の美徳を体現している。ただ、法の執行者にそれはみえずに、彼らはブッチを情なく射殺する。その死にゆく姿が、冒頭のまぶしく健康的にすらみえるイメージであったことがわかる。胸と腰を撃たれて満身創痍であったのだ。
よく生きようとすることと、生きさせてもらえないこと。タイトルをなす成句は、劇中では付随的にのみ言及される。完璧な世界であれば犯罪者の確保は容易だ。完璧な世界であれば、犯罪などおこらないはずだ。犯罪者として狙われる男が、少年と観客の心に一瞬だけまぶしく光る完璧な世界を作り出して、そしてそれは潰えていった。それでもなお、完璧な世界は可能であるという希望をほのかに残していることが、この映画の情感あふれるメッセージであると受け取った。
素晴らしい脚本と演技のうえに、素晴らしい命名が与えられて、すぐれた作品がたちあらわれた。