荻窪に住んでいたとき、ある日曜日にひさしぶりに書店にいく時間ができて、そこでみつけて買ったのだとおもう。あまり読めずに実家の書架に挿していたものを、年末年始の休暇に読んだ。
アメリカ合衆国の住人が、黒人差別を嘆いたり、そんなものは存在しないとうそぶいたり、身体と生命を破壊されることをおそれて生きたり、わたしはレイシストではないと主張したりする。奴隷貿易と奴隷制度が歴史の地層に眠っているときに、いま黒い肉体をおびやかす暴力はいったいどのような集合的無意識に根ざしているのか。それを詩的に物語っている。
豊かな生活を郊外で送ること。それを「夢」という比喩で呼んで、その「夢」の代償として黒人の肉体を破壊することが、国家的歴史の要請である。そういっているのだろうと読んだ。アメリカ合衆国の「夢」は黒人の身体であがなわれる。フランス共和国の「夢」はハイチとウォロフの肉体であがなわれた。収奪して蓄積する国富。
警官が暴力を発散するとき、それはある警官に固有の狂気がそうさせるのではなく、国家の歴史に書き込まれた狂気がうごめいているのである。集団的恐怖は警官を代理人として選んで、歴史を遂行させる。殺人者を弾劾することは不可能だ。なぜならそれは多数派の意思なのであるから(民主主義!)。地震を喚問することができないのと同じように、警官も喚問することができない。自然災害をやりすごそうとつとめるようにつとめるよりない。
黒い身体を生きるということはこれらを意味するということが述べられている。あらゆるちいさな失敗は、身体を破壊する悲劇につながっている。足元をすくわれるというだけのことにあらず、すべてが破壊されて無になる。自分が無になる恐怖だけでない。若い息子がいつでも破壊されうる。その恐ろしさ。不安。その摂理を息子が知ってしまうことのやるせなさ。
固有名詞の知識におぼつかないところがあった。口語表現においてもそう。明晰に読めたという自信はないけれど、ジェイムズ・ボールドウィンの系譜を継ぐライターであるとトニ・モリスンが称賛する、ぼくたちの世代の雄弁な作家のひとまとまりの言葉に触れられたことはうれしい。またいつかなにかを読むだろうという予感がある。
https://www.penguinrandomhouse.com/books/220290/between-the-world-and-me-by-ta-nehisi-coates/