Oxford University Press によるシリーズより、歴史学の簡明な入門書を読んだ。
「歴史とはなにか?」と問うのはなかなかやりづらい。どんな回答に納得できるのか、自分自身でもよくわかっていない。まして歴史の専門家であれば、その回答がいわばアイデンティティの根拠になるだろう。そして、アイデンティティについてかんたんに説明しようとすることは、ほとんど無謀な試みだ。
120頁ばかりの小さな本で、その問いを広げて畳みなおすことまでをひとまず終えているのだから、なかなかにすごい本だとおもう。いくつもの論点を並べ、魅力的な挿話を供給して、ひとまずの見解に収束させる。そのうえで、「歴史とはなにか?」という問いにいまいちど読者が向き合うことを促す。勉強するのはたのしいことですよと励まして完結する。
いろんな話題がでてきたけれど、ぼくはこう受け止めた。歴史とは、哲学の言葉で科学をやりなおすような学問でないかな。観察可能な情報を収集して、解析する。データを正しく整合させるように抽象化をほどこして、世界のなりたちを叙述する。
計量可能なデータをあつめて、数理の道具で抽象化するのは、自然科学の仕事である。収集・解析・抽象化の諸段階において捨象をこうむるものはおおいにあるから、これは世界を記述するたったひとつのやりかたではありえない。
違うやりかたで思考すること。それを励ますのが、歴史を学ぶことのひとつの機能である。人間は、生まれ、交じり、死んでいく。世界にただあらわれては消えていく。ひとつひとつの人生にはなにか重要な意味があるかもしれないし、まったくないかもしれない。人生の痕跡はしかし、望むと望まざるに関わらず、残ってしまうもののようだ。その痕跡を解析して、なにかを発見する。新発見があるとおもしろい。そういう好奇心に支えられてぼくは歴史に向かうことができるような気がする。
グローバルな理論系を共有して仕事をする科学者たちがいて、その理論系の(人工的な)明快さをもって科学に魅力をおぼえることはある。そこに客観的真実があると信じることはたしかに可能である。しかしその系はそもそも恣意的に定義されたルールである。そのなかで思考することはときに、ぼくたちはみな金魚鉢のなかで泳がされているにすぎないという気分にさせることがある。
人文学者の仕事も、自然科学者の仕事も、差はそれほどおおくないようにおもう。いっそのこと、およそ知的生産とよばれる営みはすべて同じようなものとさえ感じる。情報を集めて、解析して、抽象化して提出する。情報伝達のプロトコルがそれぞれ異なるだけで、手続きとしては大同小異とおもわれる。どのやりかたにも有効な時宜はある。人工的な数理を所与の道具として合意することと、自然言語を懐疑の対象として合意することを対照させて、後者がよりラディカルであると信じたくはある。
語られることと語られないことをあつかって、このように述べていることが印象深かった。これは第四章より。
過去のひとびとが書き残したことと、書き残さなかったことがある。書き残したつもりで誤っていたことがある。書き残さなかったが、書き残さなかったことでかえって浮かび上がることがある。書き残されたものの誰にも読まれないことがある。誰にも読まれないままで永遠に失われることがある。失われてしまったものは痛ましいが、まもなく失われようとするときに、歴史は語られ始める。