きょうで仕事はおわり。ぼんやりしたいちねんだった。

4月に GitHub の求人をたまたまみつけた。「あ、受けたい」とおもった。はじめて書く英文レジュメを Amazon のロンドンオフィスで働く友達に添削してもらった。そのレジュメはそこから回し読みされて、あちらこちらからフィードバックをもらった。まあまあできのよいものを提出したつもりで、なしのつぶてだった。

まあそれはそんなものと割り切れていたからよい。しかしそのあとでどうにもいつもの仕事が灰色にみえはじめてしまって、急激にモチベーションがしぼんだ。いったん辞めてのんびりしようかなと夢想したりした。やけっぱちになっていたつもりはないけど、いろいろうまくいっていなかったんだろうな。

とはいえ辞めるまではいかずに、プロダクト開発から認証基盤開発にチームを移された。おおきなリリースの前のしあげの時期に合流した。いい気分転換にはなった。リリースもうまくいった。お祝いに京都に連れていってもらった。紅葉がきれいだった。

年末になって、半年前にぼくが辞めないように搬送してくれた兄貴分の退職を知った。そのひとがいなくなる前に雑談のセッションをねじこんだ。きれいごとばかりでないのはわかっていたけど、いざ赤裸々な話を聞くともやもやした気分はあった。うまくいっているようにみせかけるのはたいへんなことだとおもった。

もっとも効果的なプログラマのひとりではいられているようだ。それは自信をあたえてくれる。しかしものたりなさもある。たとえばほんらい専門というべきはずの外国語をほとんどつかっていないこと。そこにもどかしい気持ちはある。外国語がどうこうというよりも、より高いレベルで議論のできる相手をもとめているようなところもある。ものたりなさに帰結する。

仕事が人生のすべてでないということを新鮮に再発見したのはすばらしいことだった。気晴らしに映画をみたり小説を読んだりするのがたのしかった。音楽を聴きにいったり舞台を観にいったりもした。それはじゅうぶん幸福である。その満足がもどかしさをほどよく打ち消した。そんな調子のぼんやりしたいちねんだった。