クリスマスの週末が開けた月曜日に帰省した。

地域のおおきなテニス大会に妹が出場することになった。それに付き添って母も家を空けることが必要になった。誰もいなくなった実家でインコの面倒をみる人頭として帰省を促された。大学生の弟でもアルバイトの妹でもなく、もうすぐ30歳になるぼくに白羽の矢が立った。それはぼくが気楽な身分を維持できている幸福な証であるような、しかしいっぽうでは、家族の事情を顧みるものはぼくのほかにはもはやなく、わがみひとつに面倒事を引き受けなければならないという暗示も含んでいる。

ともあれ、平日の新幹線に乗って帰省。北上あたりから積雪がみえはじめるも、奥羽山脈を越えてもひどく豪雪ということはなく、想像よりはまだあたたかい気候をしていた。むき出しのアスファルトをあるくこともまだできる。広い家のあちこちから、屋根を雪が滑り落ちてゆく激しい音がしばしば聞こえる。それはこの数週間にいちじるしい積雪をたくわえたことの裏返しでもある。

静かな家で静かに仕事をして過ごす。あいまをみてインコと遊んだりする。髭をおおきく膨らませてドイツから帰国したときもおびえずに肩にのってくれたはずの一匹は、声と顔の記憶をうしなってしまったようで、ぼくがケージに近づくたびにあわてて奥まった穴に逃げ込む。ストレスをあたえていないか心配している。もう一匹のより幼い個体は、幼体時代には黄ばんでいた身体をおとなの真っ白な羽で覆い直して堂々としている。はじめは好戦的であったがすぐに慣れて肩に乗ってくるようになった。

妹はもう一年とすこしで高校の課程を終えることになる。そのときがきたら、この家にひとりで住む気はないか? そういう目論見が陰に陽にほのめかされるようになった。この数年の話である。

広い家にいて、周囲は雪に閉ざされることを想像する。まるで『シャイニング』のようだ、と連想するのは、すでに気が滅入っている証だろうか。雪国に住むのは嫌いでないとおもうけれど、この家に長く住むのは気が重い。たった二日をひとりで暮らしただけですでにちいさな沈鬱が頭をもたげている。

幼いころからの記憶が濃く残る家は、取り壊すことをおもうと口惜しい。しかしそれを避けるために誰かがここに住み続けることは惨めなようでもある。口惜しさは曽祖父の代までの歴史の重みにある。しかしこれをさらに延命させることは、あとをますます重くする。そうであれば、いさぎよくほろぼしてしまうのがかえって気持ちよくもあるか。

継承の悩みというのは結局のところ、自分の代でそれを絶やしたくないというエゴのようにおもわれる。祖父はそのようにして父にそれを手渡し、父は愛憎を抱えつつもそれをぼくに手渡すかそうすまいか混乱している。希望を尋ねる形式でぼくに繰り返し問うてくるのは、あわよくば自分の手で終わらせないようにできまいかと期待しているようにみえる。ううむ。

思い出は遺産であるけれど、不動産は負債に属するとおもわれる。捨てられるものは捨てやすくたもつ。ものに肉体を束縛させない。そのようにしたい。