ジョージ・A・ロメロとダリオ・アルジェントの『ゾンビ』を観た。

学生時代に残酷映画の製作と啓蒙をしていた友人がこれの大ファンだった。彼ともっとも仲のよかったころは、どうしてか観賞していなかった。サウンドトラックの生演奏イベントがあるといって彼はニューヨークに遠征さえしていた。彼のように残酷映画に愛情を示したひとを知ると、ミーム的用法でゾンビを語るのは亜インテリを気取るようで、あいまいな気分になる。たとえば、ゾンビという言葉は西アフリカに起源があるらしい。そんなこともきょうまで知りはしなかった。

ゾンビの恐怖は示されるが、ホラー映画というほどの陰鬱さはない。いい意味で力がはいっていない。ゾンビたちは知性を欠いて鈍いから、彼らに襲われたものが必死になって泣き叫ぶということもほとんどない。かつてひとだったそれが次から次に湧いてきて、順番に脳を破壊していくという空疎な労働の苦しさが、恐怖よりも強く映る。

空疎な労働の果てに安らぎの時間はおとずれる。ゾンビのいないスーパーマーケットで羽を伸ばす。ただそれだけである。それもまた空疎である。それに耽溺することは果たして安らぎであるのかと、皮肉に語っているようにもおもわれる。たった4人だけの世界で奢侈を味わって満足できるのであれば、まあ幸せなのだろう。

抑圧は回帰して、スーパーマーケットはふたたびゾンビの楽園になる。悲劇のようにみえて、映画はあくまでカラッとしている。沈鬱であるよりは好ましい。パンク的な手作りの映像も優れている。しかし心から熱狂して受容するムードでいまはなかったようだ。ひとりでじっくり観るよりも、大人数でがやがやと観るスタイルにより向いているか。

サウンドトラックは、事実抜きん出ていた。