ライアン・クーグラー監督の第一作にしてマイケル・B・ジョーダンの出世作でもあるすぐれた映画をみた。
22歳のオスカー・グラント青年が現実に銃撃される瞬間の、携帯電話のカメラのフッテージが冒頭に挿入される。その生々しい暴力を提示したうえで、劇は平穏にはじまる。2009年の大晦日の24時間が丹念に描かれる。眠れないという娘と夫婦がひとつのベッドでともに寝て、31日の朝を迎える。まもなくおとずれる死を誰ひとりとして予感することもなく、彼がコミュニティで過ごす一日が映される。その日はオスカーの母の誕生日でもある。
オスカーの娘は聡明で、母の家系から学んだスペイン語も話す。この娘には高い水準の教育を受けさせたい。しかしそう願う彼自身は打ちのめされている。2週間前にスーパーマーケットの仕事をクビにされたことを妻にも話せていない。それにも関わらず家賃の支払日は近づいている。
自分のために持っている大麻を売って生活のたしにしようとして、取引場所の海岸をおとずれて、回想する。1年前の大晦日。彼は監獄にいた。強い男でいなければならないという不文律があるから、彼は面会に訪れた母の心配をないがしろにして、顔のアザの理由を語ることができない。監獄にいることは愛するひとたちの誰のためにもならないと痛いほど知りながら、そこに入れられてしまい時間を奪われるもどかしさと孤独。その記憶。まぶしく照らされた海岸の岩場に大麻を捨てる後ろ姿が映される。美しいショットだとおもった。
善に向かう意志だけでは生きられない。心を洗い替えても、警官の目に映るのは黒い肌だけである。電車から引きずり出されて、不当に拘束される。それは正義ではないと知っているから、意志の力で立ち上がろうとする。抗議は暴力に押しつぶされて、あまつさえ命を奪われる。なんということだろう。
負け犬たちが暴力と死に向かっていく姿をみて、究極の運命を待つ代わりにみずからそれを掴み取ろうとする意志をみる傾向がぼくのなかに育まれていた。極道映画をみても、戦争映画をみても、ボクシング映画をみても、持たざるものがおのおのの悲しみを負って死に場所を探す姿勢を探していた。それは滅ぶべき男らしさの像であった。
『フルートベール駅で』が描く死は違う。望まない暴力に引きずり出されて、すべてが暗闇に還される。自分で死を選ぼうとなどしていないのに、死のほうが銃口から発射される。やり残したことがたくさんあるのに、覚悟を決めるどころかなにひとつ考える暇もなく、無がおとずれる。ひどくぶっきらぼうで、叙事も叙情も猶予を与えられない。しかしそれは黒い肌で生きるアメリカ合衆国の現実のひとつである。なんと陰惨なことか。
生々しく苦しい題材に叙事性を与えたライアン・クーグラー監督の手腕はいちじるしい。マイケル・B・ジョーダンは『遠い夜明け』のデンゼル・ワシントンに似て、悲しみと人懐っこさとカリスマを内に秘めて未来に希望を持つ青年を演じている。実際、オスカーの死を知らされて慟哭する家族と友人の狼狽する姿は、ビコを失って困惑する南アフリカのひとびとに通底している。生前の名声は死に軽重をつけない。
死はありふれている。望む死と待つ死は古来そうである。空から落ちてくる死もそう。そんなのんきなことを言って、真に死と隣り合わせに生きる魂を想像していなかった自分自身がむごい。生きる意志を無効にするなど、ひとの所業ではない。それにも関わらず、それは止まらない。死後の世界で悪がほろぼされることをただ期待して、それで溜飲を下げられるだろうか?