クリード チャンプを継ぐ男』に続けてシリーズの第二作を観た。

公開時に劇場で観た記憶がある。そのときにはじゅうぶん楽しめたようにもおもう。しかしあらためてみるとしょうしょうメロドラマ的にすぎる印象が勝った。家族、親子、結婚、出産。これらの出来事がじつにステレオタイプ的に提示される。映画の冒頭でクリードはほとんど葛藤もしないままチャンピオンベルトを手に入れてしまい、俗世を離れる。フィラデルフィアのひとびととの交流は描かれない。ロサンゼルスのタワーマンションにひとりこもってただメソメソするチャンピオンばかりが映される。カリフォルニアの荒野で重いパンチに耐える特訓をしても、それがどう具体的に彼に自信をもたせるのかわからない。身体を動かすことがくたびれた精神を癒やす、という程度には理解するが、いちど手痛い敗北を味わった相手への対抗力がそれで身につくというのが腑に落ちない。

傲慢の道が地獄に向かっているということはよくわかる。リッキー・コンランと闘い、クリードは試合には破れても誇り高く生きることのより大きな喜びを手に入れたはずだった。しかし前作で苦悩の果てにたどり着いたその人格は、この第二作では消去されている。空虚なプライドを振りかざして、心を閉ざして、自分ではそれに気づかずにチャンプを自称する。それを偽王者とそしるドラゴ親子は、間違っていない。最初のファイトでのクリードの傲慢は、そっくりそのまま前作のリッキー・コンランに重なる。ヒーローを悪役として演出するのは、その後の逆転への布石であっても、気持ちのいいものではない。

彼に対抗するドラゴ親子もまた、去勢されたオス二匹という印象ばかりが強調されて、悪役の魅力はない。来歴は時代の被害者ともみえるが、老若の巨漢ふたりが失った美しい中年女性(と遠回しに言わずともそれぞれにとって元妻と母であるのだが)の愛を求めて闘うというのは、どうも安っぽい。国家のために、栄光を取り戻すために闘うといいながら、ただひとりの女性に向けた無謀な愛の虚像が砕けてギブアップするというのも、ファイターにしては情けない。結果として、誰ひとり闘う理由をもたないのになんのためか殴り合うというストーリーになっていて、芯がない。どうも酔いの覚める映画に仕上がってしまっている。