ジョン・ウェインの『アラモ』をみた。原題は The Alamo 。1960年。
テキサスにある砦を争ったといいつつ、結局のところ砦は守りきられたかどうか。米墨戦争とどのように関係しているか。このあたりの史的事実はなにひとつ知っていなかった。単にジョン・ウェインの大きな仕事として観ることにした。しかしそれではプロットの把握がなかなか難しいこともわかった。メキシコ合衆国とはなにか? テキサスはなんのためにメキシコと戦っているのか? アメリカ合衆国はどこにいったのか? とはいえ、映画を観終えたあとにここから学んだとおもえることはおおい。
映画としては、おおきく前半部と後半部があり、後半部の末尾におおきな戦闘が起こるはこびになる。前半部ではデイヴィー・クロケットの人望がいくつかの角度から描かれて、にこやかにゆっくりと、しかし機知に富んだ話しかたをするジョン・ウェインに魅せられることになる。クロケットとテネシーの志願兵たちがアラモに到着して、後半がはじまる。クロケットに加えて、ボウイ大佐とトラヴィス大佐がそれぞれ持つ使命と責任がときにぶつかりあいながら浮かび上がる。そして避けられない死がおとずれる。
三者三様の男らしさが提示される。高い視座を持って統率すること。自分らしく生きること。寛容であること。それぞれがトラヴィス大佐、ボウイ大佐、クロケットに対応する。残りの志願兵たちも劣らず勇敢である。そして彼らはみな、女性と子どもたちを逃したあと、まるでそこに死に場所を見出したかのようにして、玉砕する。男たちの命は清々しいまでに軽い。ひとは死ぬべき運命を背負って生まれてきて、死ぬべきときに死ぬ。よく生きようとする意志と早い死に向かう態度は矛盾しない。求められた場所でくたばる。
テキサスとメキシコの衝突というと、現代のイメージをアナクロに当てはめて想像してしまうけれど、アラモにおいてはテキサス人たちは違法なごろつき集団で、それを制圧しようとするメキシコ軍は西欧化が進んでよく統率された美しい騎兵隊である。メキシコの強権にテキサスが反発するという構図がある。この状況をよく飲み込むことが第一に必要だった。
アラモ守備隊はごろつきだから、卑怯といってまったくおかしくない、びっくりするような夜襲を仕掛ける。泥まみれになりながらメキシコ軍の大砲を破壊することにはまったくエレガンスがないし、フラメンコに興じる敵軍のそばの川を雁首ならべてのろのろと徒歩で遡上するのも、喜劇的だ。しかしそういう様子をほほえましくみていると、畜牛の群れを大移動させる衝撃的なシークエンスがやってきて腰を抜かすことになる。鋭い角を生やして家畜とはいいつつ手のつけようのなさはほとんど野生といってもいい群れを、カウボーイたちが追い立てて走り回らせる。みていると、あわてた牛が転んで折り重なったりさえしている。こんなワイルドな映像を劇映画にとりいれていることが強烈に印象に残った。