北野武の三作目を観た。 1991 年の作品。

サーフィンを主題にして、爽やかなスポーツ映画の装いをしている。聾者の主人公が、静かな情熱で波乗りに没頭していくさまを、ほとんどダイアログを使わずに表情とたたずまいだけで穏やかに映す。騒がしくなく、余裕があって力強い表現である。

たまたま拾ったサーフボードだけを足がかりにして、手探りで波乗りに挑戦する茂をあざけるサーファー連中が序盤に描かれる。それは普通の感覚でいくと、嫌な、いけ好かない、閉鎖的な、という形容詞がふさわしいひとびとである。茂は耳が聞こえないからその嘲弄にすら気づかないことになっていて、コツコツと努力する初心者と、それを見下す経験者、という構図がいかにも伏線のように提示される。サーフショップの経営者も、どうにもあこぎな登場の仕方をする。

その関係はしかし、やがて彼が努力を重ねて技術を身に着けていくにつれて、承認と受容に転ずる。そのときに、あんなに悪し様に振る舞っていた連中からの謝罪が描かれることはない。下手でも仲良しという具合の表面的な友情ではなく、サーフィンによって深く結ばれた特別な友情があるということは、優れて美しいとおもった。一見して悪くみえるものがかえって美点に転ずるという逆説がうまく捉えられている。

彼らは駆け出しの茂を笑いこそすれ、彼が上達するにつれて正しく敬意を送るようになる。いっぽうでは失敗を犯した仲間に、「ぜんぜんできてねえじゃねえか!」という具合に、健康的に批判してミスをごまかさない。いいものはいい。悪いものは悪い。それを率直にいっているだけで、それを外から見て性悪と断罪するのはかえって無責任になる。真に情熱をもつ仲間を厳しく批評することは、必要なこととみえる。

当世流の文化は開放的で、初心者の参入を奨励して、指弾しないことがひとつの規範になっている。しかし門戸を開いて裾野を広げようとする動きは、あんがい商売の拡大を第一義にしていたりする。ごく浅いところで寛容を演じておいて、腹の底には軽蔑を残しているということもあるだろう。文化とは進歩主義ではないということはいつも気に留めていなければならない。

さて、このひと夏のシナリオは青春映画のようなパッケージが与えられて、同じ監督の暴力映画とは質を異にしているような印象は表面的にはある。しかし底にあるスタイルはあんがい一貫しているようにもみえる。すなわち、持たざる者が、死に場所を見つけ、死んでいくということ。これはヤクザの抗争の道理とつながっている。死ぬ理由に執着することはしない。死の真相も語らない。ただひとは必ず死ぬということの追求の形式として、ある若者のサーフィンへの情熱が取り上げられた。そういうことのようにみえた。

真木蔵人さんの、サーフィンに夢中になる青年の演技は、全編を通していい。はじめは純真そのもので、終盤に向かうにつれて死の陰がさしはじめるようにみえるわずかな変化を表情で伝えているのが特別に印象的だった。大島弘子さん演ずる女性像の、にこやかでつつましく受動的な印象をみせつつ、要所では強い意志をみせる様子もいい。寺島進さんが、親切な若者として短いながらも登場して、喧嘩っ早い魅力的な人格を演じているのもよかった。

このように過酷さのほかに一抹の穏やかさもみせるスタイルの映画を撮ったことをもって、ビートたけしは実は優しいなどというのはたやすい。しかし本当のところは、死という絶対の前においてはひとはみな平等であるという世俗の哲学を一貫してもっているだけ、という印象が深まった。優しいとか意地悪だというのは、死の前では第二義的なものでしかない。