新国立劇場にて観劇。『ガラスの動物園』に続くプログラムで、これも楽しくじっくりと堪能した。

表題がユダヤ人居住区のことを指すことだけをあらかじめ知って観賞した。第一幕の冒頭、マーラーの交響曲第一番の第二楽章冒頭が流れて、舞台が世紀末のウィーンであることが知らされる。フランツ・ヨーゼフの時代。豊かなユダヤ人家庭の、クリスマスのひととき。三世代の大きな家族が、あちらでは家業を、こちらでは学問と芸術の開花(フロイトとマーラーが白眉だ)を、またあちらでは舞踏会で芽生えた恋をそれぞれ語り合っている。舞台上に人がおおく、関係を把握するのに苦心するかとおもいきや、会話の仔細によってあんがい真っ直ぐに了解されるように作られている。それがまずたいへん心地よかった。「美しく青きドナウ」のピアノ演奏も優雅だった。

19世紀後半、オーストリア=ハンガリー皇帝は多民族主義を発達させて、ユダヤ人もその恩恵を受けていた。巷間では反ユダヤ主義の市長があらわれていたが、皇帝への敬意によってこの豊かなユダヤ家族は安心しきっている。それが、たったの20年後には第一次大戦に敗れて帝国が崩壊し、さらに20年後にはオーストリアはナチスに併合される。第二幕と第三幕でそれぞれ描かれる。ナチ士官の狼藉と水晶の夜が描かれる第三幕はあまりに過酷で黙って観るのがつらかった。文化と秩序は帝国とともにあっけなく崩壊する。国家が脆いものであることを踏まえて、家族を強固たらしめんというのがユダヤ教のひとつの本懐とおもわれるが、ナチスの崩壊は家族と伝統をすべて道連れにした。大きい筋は、そういうことを語る。

小さな筋も豊潤である。たとえば第一幕、男性社会の集いでヘルマンを公然と侮辱したフェリペがこうのたまう。「ユダヤ人には名誉というものはもともとないのだから、いくら侮辱したくてもそれはできないんだよ!」 決闘とまで口走ったヘルマンは立ち去る。そしてそれがすっかり過ぎ去った40年後の第三幕に、ヘルマンは自分の息子が純粋アーリア人であるということを、衝撃の手口とともに告白する。簡単に忘れてしまうにはあまりに一般常識から乖離した行為で、しかしそのことはヘルマンの異常性よりも、差別の論理の異常性のほうを際立たせる。世紀末の繁栄を謳歌しながら未来への抜け目なさを持つこの当主の肖像が恐ろしく印象深く残った。

家族を通して過去とつながっているという主張が第四幕であらわれて、それをもってフィナーレとなる。大家族はバラバラになり(アウシュビッツとダッハウでみな死んだ)、水晶の夜に手を怪我した少年はイギリスに逃れてユダヤ文化とのつながりを忘れかけている。1955年、残されたひとびとが死んだ人々のことを思い出して、幕を下ろす。暖かな情感が残るいっぽうで、そこからさらに世紀をまたいでいまに至って、差別にせよシオニズムにせよ、少しでも進歩があったのだろうかと疑わずにいられないのがもの悲しい。それでいて、大家族の伝統はほとんど絶滅させられて、野蛮な暴力に核家族で立ち向かわなければならないとなると、いっそ後退すら感ぜられて酷になる。

繁栄は決して永続しないが、家族は継承されていくという話にもみえる。しかし家系図にしても、際限なく再帰をたどっていくことはできず、たかだか数世代も昔になるともう断絶してみえる。この劇の家族にしても、3-4世代に渡るサーガが語られてはいるが、実際には60年ばかりのごく短い系譜のスナップショットでしかなく、その記憶も永遠ではありえない。家族の歴史を知ったレオが最後に残るが、彼の子や孫にとってはエミリアおばあちゃんはあまりにも遠く、懐かしく思い出されることは二度とないだろう。宗教の伝統が抽象化された記憶を継承することも、いまやほとんど期待できない。舞台上で描かれた伝統と家族が豊かにみえればみえるほど、現実の貧しさが浮かび上がるだけにおもわれて、人生の虚しさだけが後味として残ってしまうような気もした。

作家のストッパードは齢80を超えている。老人とは過去を理想化して語るものだが、実際のところ、昔のほうがよっぽどいい世の中だったということは十分ありえる。そう感じてしまうことに、自分自身が進歩主義への若い信仰を失って、年相応の保守化がはじまっていることもおもう。