ダイアンとカミーラというドッペルゲンガー的ペアが、いっぽうでは重なり合いもういっぽうでは相争うという、アメリカン・ゴシックの系譜を引き継ぐ想像力とおもった。
登場時点では典型的な田舎娘として描かれて、語るべき内面を持たないような、いくぶん浅ましい女性像として提示されるベティが、善人らしい振る舞いを一貫させながら、自我との対峙・葛藤に向かっていくのがおもしろい。ブロンドのウィッグで瓜二つとなったリタという分身にいざなわれるようにして、不法な家屋侵入もするし、性的な解放にも踏み出す。叔母のルース、大家のココ、叔母の友人のルイーズといった、年増盛りの女性たちからの忠告は退けて、アイデンティティのトラブルに突入していく。そのありさまはアンチヒーロー的な暴走にもみえる。行き着くさきが最終盤に見せる嫉妬と狂乱であるということが、アメリカの自我の底知れなさをのぞかせている。
後部座席に座って、不意に車が止められることが二回繰り返される。ただし、ベティはダイアンに、リタはカミーラに替わっている。自我の混乱に気が付かずに流転の渦をさまようさまは、火の鳥異形編での八百比丘尼の宿命をおもわせた。おもうに、ベティとリタの交換を筆頭に、あらゆる名前をシャッフルして撹乱させるやりかたは、誇張されてはいるがもとはひとつの小さな思いつきだったのではないかとおもう。
おなじように、即興的なアイデアの組み立てが作品づくりの肝になっている。印象的なイメージを10個ばかり用意して、そのうちいくつかをエラボレイトして作り上げたような感触がある。たとえば冒頭、車が不意に止められたところに、狂ったようなカーチェイスをする謎の暴走自動車が突撃して、大クラッシュする。たとえば、下手な殺し屋が「ブラックブック」の所有者を暗殺したあと、余計な騒ぎから太った女と愚鈍な掃除夫ももらい事故方式に殺され羽目になる。たとえば、映画製作に陰謀めいた口出しをする謎の二人組。エスプレッソとナプキンを注文して、真っ白いナプキンにコーヒーを汚らしく吐き出すこと。映画監督を呼びつけて、虚ろな目をして禅問答めいた命令を下すカウボーイ。こういう異形のアイデアが、プロットに謎を与えながら強烈なイメージを脳裏に残す道具としていくつも動員されている。これらは主題を駆動させる動機として与えられているというのではなく、強力なアイデアがただそこにあることで作品はおのずと描かれざるを得ない、ということが起こっている。そうみえる。
カメラを第三者の視点として機能させるのではなく、ベティとリタの主観にほとんど肉薄するように近い位置から、彼ら自身のエゴを語らせている。その点で、このごろ読んでいるフォークナーの創作のやりかたにも通じるともおもった。
アメリカ独自の芸術のうち最良のもの。そんなものが具象として存在するかどうかは知らないが、そこに優れて近いものを表現しえている。そういう凄みをもった映画だった。
ヒロインの女性たちは、いっぽうではもっとも美しく、いっぽうではもっとも醜い姿を演技している。それを明瞭に映し出す撮影技術も、甘やかなはずのシークエンスにさえ不穏をもたらさずにはいない音楽の妙も、いずれも鋭敏な感覚で配置されて緩むことがなかった。