二日前のこと。あるウェビナーにて、質疑のセッションでぼくの発言したなにかが講師の機嫌を逆なでした。そして、拒絶の言葉を投げられた。なにがタブーだったのかはわからない。悪意をもって発言したわけではないときに、どうしてこう互いに不愉快にならないといけないだろうと落ち込んだ。いまもフラッシュバック式に動揺がぶり返していて、まことに健康に悪い。
頭のなかで何度もリプレイ検証をして、正確になにが起こったのかをずっと考えている。いつもであれば日記の形式で整理しようとおもうはずのところだが、これについては細部を文字にしようと試みることが苦痛をまねくから、「アレ」とだけ呼んでおくことにする。たぶん何年経っても「アレ」というだけで克明に思い出せるはず。
なぜなら10年以上も前に「アレ」に近い事件があったことを、いまも鮮やかに記憶しているからである。それはカナダでの体験。クリスチャンの友達に誘われて、バイブル・スタディーに出たときのこと。その日のトピックはマタイによる福音書の5章から、この箇所。
25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。 28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 https://www.bible.com/ja/bible/1820/MRK.5.%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3
これを読んだ感想を促されて、素朴に答えた。すると講師はこういった。「おまえは完全におかしい。愛と偽善を勘違いしている。友人を使い捨てにして痛くも思わない邪悪がおまえに宿っている。すぐに直さないとたいへんなことになる」と。もちろん心当たりはなかった。中傷であった。
それで二度と教会には寄り付かなかった。というと格好よくしすぎていて、実際のところはかなりひどい動揺を引きずった。誘ってくれた友達には謝られた。あれは先生のほうが 100% 間違っていて、なにもおかしなことはいっていなかった、と励ましてくれた。気持ちは嬉しかったが、それならその場で弁護してくれればよかったのに、とおもった。大勢がみている前で名指しで罵倒されたことの辛い葛藤は拭うのが難しかった。信仰のカルトに初めて触れた思い出である。
そのことを思い出して、今回の「アレ」もカルトの乱暴だったのだろうなとおもう。そうおもうのがしっくり来る。閉じたコミュニティで、権威のないところに権威を作り出して、おかしなヒエラルキーを構築する。お上に都合のいいことはニコニコと奨励して、都合の悪いことは握りつぶす。それをみなが無意識にやっている。
セミナーにお金を払って通うということ自体、絶対うさんくさいだろ、とわかっていながら、なんとなくまわりに流されて参加してみたものの、ぼくにはやっぱりだめだった。いや、いくらかお金を無駄にしただけで済んで幸運だった。