テネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』の舞台をみた。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出、イザベル・ユペールの主演で、新国立劇場にて。舞台を見に行くのは一年前のマハーバーラタ以来。パリのオデオン座による制作を招聘するというのはずいぶん大きなイベントなのだろうとおもって臨んだ。実際、開演前と終演後の劇場ではいくつかの外国語で会話がはずんでいるのがきこえた。華やかに着飾っているひともすくなくなく、それはうるわしくみえた。
テネシー・ウィリアムスは、マーロン・ブランドの出ている『欲望という名の電車』をみた印象が強く残っていて、なんとなく格好いいとおもうところがあった。彼のもうひとつの大名作といわれているこの作品であればぜひみてみたいとおもってチケットをとった。
アメリカの、没落した南部の旧家の末裔がセントルイスで息苦しい生活をしているという情景、それをフランス語の演技でみるという構造。理解しない言葉の芝居を字幕付きでみること。いきおい言葉の翻訳に気をとられて演技そのものから集中が奪われてしまうのではないかとはじめは懸念したが、慣れれば映画のようにほとんど気にせずに楽しむことができていたようにおもう。字幕は日英の二ヶ国語で与えられていた。話されている言葉の音の数にしてはあまりにも翻訳が簡単すぎないかとおもうときがあっても、それもきっと意味にとりつかれすぎずに演技を読み取りなさいという制作側からのアシストなのだとおもって、じっくり舞台のほうに目を向けるようにし、実際それができた。
母アマンダがよく喋る人物として第二幕くらいまではよく目立つ。息子トムと娘ローラ(ローラがトムの二歳お姉さんになる)にあれこれ申し付ける。父は夢想家気質がいくところまでいって失踪したと伝えられる。彼女は没落以前の記憶、つまり過去の栄光を脚色して子どもたちに開陳し、また男はかくあるべし、女はかくあるべしという古風な教育方針を与えようとして、どうもうまくいかない。娘は内気なだけで悪い子ではないのだけれど、自立のためにとなけなしの家計から学費を捻出して通わせた専門学校を黙って退学されて、いよいよどうにかまともな男性に嫁がせるくらいしか幸福になる道は絶たれていそうにおもわれる。息子は倉庫での単純労働と低賃金に居心地の悪さを感じているが、母と姉のためにつまらない仕事でもやむにやまれないというジレンマを負っている。
この家族に、信頼できる外部の男性として導入されるのがジム・オコナーで、トムと同じ倉庫ではたらいて、給料はトムよりもいくぶん高く、夜間学校で自己啓発にも余念のない彼にローラを気に入ってもらって結婚してもらおう、そういうたくらみが家族の水面に波紋を立てることになる。しかしそのジムにしても、高校時代はスーパーマンだったのにいまでは倉庫での働き手にすぎなく、くすぶりをおぼえている。労働時間のあいまにトイレで詩を書くトムの夢想家気質を気に入っていて、彼の家に夕食に招かれて嬉しそうにやってくる。所作にいやらしいところはほとんどなく、おしゃべりなアマンダとの会話をそつなくこなすいっぽうで、内気で無口なローラとのダイアログでは彼らしい言葉のつかいかたで彼女の緊張を溶かして、互いに大切な考えを話し合うまで一気に関係を深化させる。ジムは23歳。スピーチのトレーニングとラジオエンジニアリングの勉強を重ねていて、やがてはこれからやってくるに違いないテレビの商売でそのふたつの技術を開花させて名誉を手に入れたいと語る。
ジムの行動原理は、誰かにスピーチの才能があるといわれた、とか、心理分析の才能があるといわれた、という方式に、お世辞かどうかの区別もつかない外からの声を自分の特質としていっきに信じ込むところに核がある。そしてそれと同じようにして、ローラの美点をいくつも挙げて、長所に目を向けて短所を消すんだ、というぐあいに、彼女の消極的姿勢を改善してやろうと応援をする。大人の目でそれをみてしまうと、やや向こう見ずで脆弱な姿勢が危うさとも映るが、なにせ若者の自己啓発であるから、かえってそれは清々しく、眩しくみえる。
なんの成功も約束されていないし、いくら気持ちは前向きに張ったところで、それだけでなんとかなる人生ではない。そうであるにもかかわらず、意味がなくても前向きになってすこし頑張ってみること、元気を出すこと、自分を認めて堂々としていること。そういう楽観的な明るさの大切さをジムの口がたくさん語ってくれる。ジムは去っていき、続けてトムもこの家族を離れて去ったことがトム自身の口から伝えられる。老母と無職のローラだけが残された状況には深入りせずに幕をおろす。客観的には悲壮感に満ちているが、生まれ変わったローラであれば前向きに乗り越えていけるのではないかという根拠なしの楽観主義が種をまかれている。不安な思いは否定できないが、まさにそれを否定して飛び出さないとトムに未来は開けないというジレンマも織り込まれている。そのようにして、苦しいことでも明るくとらえる以外にどうしようもない、そうでもしなければ苦しみの大きさに生きる希望が潰されてしまう、ということが戯曲の中心主題として複数層の構造をなしている。メッセージとしてはメロドラマチックともいえるけれど、切実な感情の裏打ちに気づくほどにじわじわと感動が身にしみることになる。照明が戻ると目を赤くしているひともたくさんいた。
タバコを吸うことがトムのやり場のない閉塞感を表現しているときに、舞台のうえでおそらくは偽物ではないタバコに火をつけて、スポットライトに照らされて煙がたゆたう様子は美しかった。路面の居酒屋でさえタバコを禁止しているときに、国立劇場が喫煙を許可していることに文化の太さを感じた。というのは悲しいほどに浅ましい感想だが、そういうことがあったということは書いておく。喫煙シーンがありますのでご注意ください、という張り紙がホールの入り口などに掲げてあった。この演出マナーが一般的であるのか挑発的であるのかはわからない。