印象的なシーンはあった。たとえば大女のダンス。ルイーザの憤激。泥風呂でのめくるめくワンショットでのセリフ回し。それらはみな、この映画が名作たるゆえんではなく、ジャンクに埋もれた一片の輝き、全体の成功に寄与しない一部の成功、とみた。芸術家はいくたもの女に霊感をえて創作するという着想が陳腐であるから、そこをいくら反復してもどこにもたどり着かないのは必定とみえる。壮大な楽屋落ち。肩透かしであった。
この映画を人生最良の一作に選ぶ “映画人” がおおいということ。それはかつての業界の男性支配ヒエラルキーのあらわれ(いまはどうか知らないが)と眉に唾をつけて受け止めるのが賢明である。つまるところはショーヴィニズムを偽善的に映像化した映画であって、同時代的な称賛はあったことはさておき、いまではまあ、意欲的な実験が部分的に成功した幸運な一例、というくらいのものにみえた。タバコを吸う動作が映るときはいつもフィルターぎりぎりまで短くなっていることはおもしろいとおもった。
大学生のころからずっと観てみたいとおもいながら、なかなかチャンスが訪れずにいた。午前10時の映画祭で上映するというので、金曜日を午前休にして新宿に観に行った。秋晴れの日に早起きして自転車で大久保通りを走るのは気持ちがよかった。