夕暮れに話ははじまる。主人公権藤が勤め先に敵対的買収をかける計画が披露されたあとに、誘拐犯からの最初の電話と、警察の秘密の介入によって舞台のお膳立てが整って、他人の子のために身代金を支払うか、支払わないか、という問題に煩悶する演劇仕立ての密室劇が前半を占める。決心を決めたと宣言することが、決心を決めたと自分に言い聞かせて喝をいれているだけだという演技があったり、情にあてられて為すべき大事を逃すことの悔しさと、大事のために倫理を犠牲にすることの「痛し痒し」の性質がひとを苦しませる。
倫理的名誉と世俗的名誉が長い戦いを戦って、最後には倫理を通す。現金受け渡しのかばんに滅失防止の細工を仕込む手作業をみずからこなす権藤の、非情なビジネスマンになろうとして最後にはなりきれない靴職人としての姿が印象深く映る。ものづくりの倫理。経営を志しても技術者の美徳を失わない大きな背中。
身代金の引き渡しは特急こだまのなかでおこなわれる。車内放送で呼び出された権藤が電話に出る(外から車内に電話を掛けられる仕組みがあったことが興味深い)。そして 7cm だけ開く非常窓から現金満載の手提げかばんを放下するよう命じられる。みずからのキャリアのために、身代金を支払いたくないとあれだけ苦悩した男が、誘拐された子の姿を列車の外にみて必死の叫びをあげながら力の限り素早く金を手放す演技に切実な真実味がある。これは三船敏郎の技術。誘拐犯が置き去りにした子供のもとに車から飛び出す姿も痛切。抱き合う大人と子は後景に映されて、フォーカスのあたる前景にはそれを遠くにみつめながら、権藤の協力のかいあって人質の解放に成功した刑事たちの背中。道徳のために権藤が支払った代償を知っているから「これからはあのひとのために犬になるのだ」という仲代達矢の静かな、しかし熱気のこもった檄も忘れがたく耳に残る。
後半は横浜と湘南を行き来して犯人の足跡を追いかける探偵ものに展開する。カーテンを締め切った部屋で倫理をめぐる対話を重ねていた前半にくらべるとずいぶんトーンが変わる。路上シーンの撮影がおおく、市井のひとびともおおくあらわれる。この時代の文化習俗の痕跡もフィルムに焼き付けられている。
聞き込みをもとにして証跡をつみかさねて刑事たちは共犯者をつきとめる。刑事捜査の現実は知らないながら、素人目には細部にリアリズムを感じさせられる脚本に熱中していた。共犯者のふたりが麻薬中毒者であったことと、すでにオーバードーズを装って消されていたことがわかる。マスコミに根回しをしてその死を隠して、新聞上で犯人と駆け引きをする。犯人の姿とその生活のいったんを観客にだけ先に種明かしする演出のやりかたもおもしろい。
警察側の報道戦略によって犯人は浮足立って、受け渡し用のかばんの処分にうごく。そのとき権藤が仕込んだ細工が機能して、横浜の街に桃色の煙があがる。これで犯人はつきとめられる。そこで終わらせないことが粋である。曰く、誘拐ではたかだか15年の刑が限度になるが、それでは権藤が奪われたものの重さに釣り合わない。物的証拠を固めるために、殺人衝動を再燃焼させて、そして極刑に追い込もう。そう動く。山崎努の演じる主犯は警察のプロット通りにもういちど薬物を購入して、阿片窟での人体実験でもうひとつの命を奪い(これは警察の落ち度)、ふたたび共犯者の「処分」に向かったところでお縄になる。月の光のまぶしい別荘地でおもわず左右から追い詰められると、ここまで握りしめてやってきた手のなかの薬物を飲み込んで自殺しようともがくが、それもかなわない。手錠がかけられる。
死刑囚となったこの男による述懐のシーンが最後に挿入される。夏は暑く冬は寒い狭い部屋から見上げながら、見晴らしのいい丘のうえの権藤邸をやがて恨むようになったという。やり場のない若い怒り。医学インターンをしていてもこの世は地獄とうそぶくそのすがた。それを反抗の物語として青春的に描く代わりに、その反発精神におびやかされる市民の物語として描いているところにこのシナリオの特徴があるようだ。
『罪と罰』の問題設定に近づいているようで、殺人者の葛藤にはほとんど踏み込んでおらず、結果として不条理犯罪の苦い後味だけが残る。医学生をしていることが犯罪インテリジェンスの高さの根拠となっているが、それにしては大金の使いみちも不明だし、後始末になにかと無計画がすぎる。この若い医学生は異常な心理を持っていた、という大雑把な総括に行き着いて、そこから先に広がらなくなっていないか。犯罪者側の普遍をあらわすなんらかの道筋を最後のシーンで提示できなかったことが惜しい。結局のところ、善悪二元論、勧善懲悪の物語におさまっていた。それでも十分に楽しませられたが、警察がひとり勝利し、経営者は生き延びるも、貧しきものは死に追いやられて終わり、というシナリオをよく省みると、あまり無邪気に喜ぶことはできない。