肌の白い男。彼が容疑を受ける殺人、放火、逃走。生まれたときから黒人の血が流れていると疑われて、自分が白いか黒いかも、なんのために生まれてどこに向かっているのかもわからずに、数少ない知己とのすれ違いから破滅のほうに押し出されていく。

身重の若い女。逃げた夫を探しだすあぶなっかしい旅行の途中、殺人事件に揺れる町のひとびとの助けを借りて出産する。天真爛漫で無知。しかし生まれたての息子を抱いてたったひとりで立ち上がる強靭さをもった女性の姿。

黒人解放論者の末裔の寡婦。彼女の家族がいかにしてこの土地、ジェファソンに至り、そしてサートリス大佐に処刑されるか。中年にして性的に目覚める彼女がどのようないたずらに身と心を焦がすようになるか。

シングルマザーに恋する奥手な中年男性。日々をつまらなく、ぼんやりと暮らしてきた彼が、よく似た名前の人違いから夫のいない妊婦に一目惚れする。すべてを彼女に捧げる勢いで奉仕したかとおもえば、新しい生命の誕生にショックを受け、逃げだす。彼女を二度捨てた浮気男に決死の戦いを挑み、圧倒的な有利を活かさなかったことに烈しく逆上されて殴り倒される。

先祖の伝承に取り憑かれた牧師。25年前の妻のスキャンダルによるキャリアの破滅。リンチすれすれの脅迫を受けても町に留まる狂気。バンチの助けに応じて分娩を手伝う。

脱走犯を追う愛国者の完璧で残酷な仕事。流れ者ふたりによる密造ウイスキーの販売ビジネス。孤児院での幼い人種差別と拉致。未婚出産をする娘の分娩に医師を呼ばずに死なせる父親。生まれたばかりの赤ん坊を捨て子にすること。

貧しい家庭の宗教的厳格。母の気づかいを拒否して乱暴する青年。10セントのパイ。若いことのどうしようもないつらさ。

物語はぜんぶで21章あって、さらに各章のなかにいくつかのエピソードが書きわけられている。

断章ごとに主人公が変わることは珍しくなく、しかも描写のしかたも、現在時制でリアリスティックに語られることもあれば、匿名の噂話や又聞き体裁による不確かな過去形の体裁で語られもする。

ひとつのことを複数の異なる立場から描くこともあるし、事前にほのめかされていた小さな光景があとから肉付けされておおきく膨らむこともある。

第一章でみえた煙の柱が、バーデン婦人邸の火事であることはあとから知らされる。燃える家のなかで首の切られた死体が見つかることはさらにあとからわかる。バーデン婦人の来歴と仕事、殺人容疑者との関係はもっとあとから出てくる。ひとつの結末に物語が収斂していくのとはてんで逆に、ひとつの景色を契機に物語が発散している。そしてそれがフィクションを作り物らしくさせずに、本当に生きたひとびとの、本当にあった話が書かれているかのような説得力を与えている。

孤児院のエピソードもおなじように広がっていく想像力をもっている。孤児院の栄養士が職場でいけない恋の遊びをしている様子を5歳ばかりの子供に聞かれて憤慨する様子。第六章より、これは端的にこの栄養士の性格を要約する切れ味の立った文。

The dietitian was twentyseven–old enough to have to take a few amorous risks but still young enough to attach a great deal of importance not so much to love, but to being caught at it. She was also stupid enough to believe that a child of five not only could deduce the truth from what he had heard, but that he would want to tell it as an adult would. (123)

そして彼女はボイラー室の見張り番の男に近づく。彼は壮年であるというのにこんなつまらない職場にいて、5年前にこの孤児院で働きはじめて、その年のクリスマスにこの子がみなしごとして入所して以来、憎しみのこもった目で見張り続けている。5歳の子のほうもまた、この男がどうやら自分を強烈に憎んでいるとわかっている。

He knew that he was never on the playground for an instant that the man was not watching him from the chair in the furnace room door, and that the man was watching him with a profound and unflagging attention. If the child had been older he would perhaps have thought He hates me and fears me. So much so that he cannot let me out of his sight With more vocabulary but no more age he might have thought That is why I am different from the others: because he is watching me all the time He accepted it. (138)

この章は、この狂信的な壮年男性による拉致未遂から解放されて、孤児ジョセフがマッケカン家の養子にはいって幕を閉じる。見張り番の狂った男はひとまず忘れられる。第十六章に、ハインズ夫妻が牧師をおとずれて、殺人犯が彼らの孫であるという話を開陳して、それは思い出される。ひとり娘を見殺しにして、残った子供も奪い取った狂人が、自分だけはこの子供は呪われていると監視しつづけた。グロテスクな執着–それは直接は語られないからハインズ婦人も牧師も知らない。読者にだけ知らされている。それを知らされると、30年にわたる時間の流れのなかで、脇役たちがどのような人生を送ってきたかについてこれまでの配慮を示して整合性を与える作家の手さばきにため息がでる。

英文で500ページ、翻訳で600-700ページある長い文章は、複雑なプロットがおのずと物語を長くしているというわけではかならずしもない。あらゆる細かな歴史と人間関係の描写によってそれだけ分厚くなっていて、それをもたらしているのはいわば細部の冗長な書き込み、饒舌なおしゃべりのようなディテールである。

たとえば終盤になってはじめてあらわれて、たったひとつの仕事を成し遂げるための役割を与えられているパーシー・グリムという軍人がいる。彼のなす仕事とは、ここまで長くその半生と犯罪、また逃走劇が語られてきたジョー・クリスマスをとうとう射殺することであるが、その死刑執行を語る前に、グリムという人物の造形、彼の聞かん気なまでに強情な愛国心のありさまが、いやに充実したエピソードとして書き込まれている。そのうち最初のものがこれ。

In fact, his first serious fight was with an exsoldier who made some remark to the effect that if he had to do it again, he would fight this time on the German side and against France. At once Grimm took him up. “Against America too?” he said. “If America’s fool enough to help France out again,” the soldier said. Grimm struck him at once; he was smaller than the soldier, still in his teens. The result was foregone; even Grimm doubtless knew that. But he took his punishment until even the soldier begged the bystanders to hold the boy back. And he wore the scars of that battle as proudly as he was later to wear the uniform itself for which he had blindly fought. (450)

こうしたまっすぐな軍人のありさまを、皮肉とも称賛ともとれる具合に逸話として描いたうえで、物語は現在の殺人犯と軍人の対決になる。おそろしい結末、かえってこの軍人のほうが悪魔的にさえみえる所業は、あらかじめグリムの盲目的な職業意識の合意があったから、その残忍ぶりもさもありなんという説得力をもって、忘れられない後味を残している。

Grimm emptied the automatic’s magazine into the table; later someone covered all five shots with a folded handkerchief. [..] When the others reached the kitchen they saw the table flung aside now and Grimm stooping over the body. When they approached to see what he was about, they saw that the man was not dead yet, and when they saw what Grimm was doing one of the men gave a choked cry and stumbled back into the wall and began to vomit. Then Grimm too sprang back, flinging behind him the bloody butcher knife. “Now you’ll let white women alone, even in hell,” he said. (464)

こうしてしばしば饒舌のほうに傾く書き方をしているが、ときには象徴的な比喩によって端的に要約するシャープさも持っているから、長い文章も冗長に陥らずに堂々たる読み味を残している。これはバイロンが善人と悪人のちがいを説明して、善人として生きることの厳しさをたとえ話で説明する断章。

I mind how I said to you once that there is a price for being good the same as for being bad; a cost to pay. And it’s the good men that cant deny the bill when it comes around. They cant deny it for the reason that there aint any way to make them pay it, like a honest man that gambles. The bad men can deny it; that’s why dont anybody expect them to pay on sight or any other time. But the good cant. Maybe it takes longer to pay for being good than for being bad. (390)

それからこれは、白い肌の人種アイデンティティに揺れるクリスマスが黒人と交換したブーツに履き変えたことを、底のみえない暗い深みに足を踏み入れたと同時に、もう洗い流せない潜在力がくるぶしからこっちに染み寄せてきている、と象徴的に述べる場面。

At last the noise and the alarms, the sound and fury of the hunt, dies away, dies out of his hearing. He was not in the cottonhouse when the man and the dogs passed, as the sheriff believed. He paused there only long enough to lace up the brogans: the black shoes, the black shoes smelling of negro. They looked like they had been chopped out of iron ore with a dull axe. Looking down at the harsh, crude, clumsy shapelessness of them, he said “Hah” through his teeth. It seemed to him that he could see himself being hunted by white men at last into the black abyss which had been waiting, trying, for thirty years to drown him and into which now and at last he had actually entered bearing now upon his ankles the definite and ineradicable gauge of its upward moving. (331)

新潮文庫の翻訳本を今年の5月に買っていた。なんとなく読もうとおもって、デスクの端においたまま、分厚いなあと眺めるばかりでなかなか手が伸びなかった。

8月に The Sound and the Fury を読み終えた勢いで、実家にあった原書のほうを読み始めることにした。少なくとも5年以上前に買って積んでいた。最初だけ読んで挫折していたはずとおもった。なぜならこの本について主人公たちの名前をかろうじておぼえているだけで、どのような運命が彼らの先に控えていたか、その物語をなにも記憶していなかったため。翻訳本を手に入れたときも、読んだことのない小説をはじめて読むくらいのつもりでいた。それが、どうもいちど原書で通読していたらしいことがわかった。

終盤にいたるまでまんべんなく下線のハイライトが残っていて、余白のメモ書きもたくさんあった。メモがなければ読み落としていただろう、あんがい深い示唆も書き込まれていた。それでもなお話の全体像はまったくおぼえていないものだから、まるで中古で買ってきた本を、知らない人の書き込みを手引にして読んでいるような感覚があった。筆跡は自分自身のものだから、奇妙な気分だった。

たしかなことはこうだ。形式上は一冊の本を読み終えたつもりで、その内容はすこしも読み取れていなかった。目が文字のうえをすべっただけで、なにもあとに残らない読書をしていた。もったいなかった。

もういちどじっくりと読み直して、前よりはずっとよく読めたとおもう。感動をおぼえた場面さえいくつもあったし、すっかりすべてを忘れてしまうことはこんどはないはず。

でも、ここまでまったく読めていなかったことが明らかになってしまうと、自分がこれまで読み終えたつもりになってきたたくさんの本が、本当に読めていたのかどうかが不安でしかたない。一生懸命に読んできたつもりでいて、なにもあとに残っていなかったのだとすれば、おそるべき徒労である。生きてなんの記憶も持てないというようにおそろしい。死ぬまでのわずかな時間のあいだにひとつでも多くの記憶を持ちたい、という「生きる意味」の定義が敗れてしまう。なんということだ。

もっとも、どんな本も完全に読み終えることは不可能であるともいう。書かれていることのすべてを理解した。もう二度と読まなくてもまったく構わない。ここ書かれているアイデアは用済みだ。そう言い切ることができないのは明らか。つまりどれだけ上手に読めても完璧というものはないのだから、どれだけ下手に読んでいたかと卑下することもない。たぶん上手いも下手もない。いまの自分がどれだけ切実に向き合うことができたかという質だけがあって、それは過去と未来の自分自身を含む第三者と比較することはあたわない。