どんな男が話しているのかわからない、ベラスケスへの晦渋な批評のモノローグからはじまる。書きことばを読みあげていて、おそらく話者自身も意味を伝えられると信じていないし、伝えようとははなからしていない。伝わる意味があるとすれば、それは難しそうなことを難しく話す男がいるという事実だけだ。

明るい日差しのしたでテニスに興じる二人の若い女性のモンタージュ。路面の書店で夏用のスーツに真っ赤なネクタイを合わせたサングラスの男が絵本を小脇に抱えて昼間の店先を物色する。裸の男が空っぽの浴槽のなかにいて、火をつけたばかりのタバコを口の端に咥えて、背表紙に折り目のついたペーパーバックを目の高さに持ち上げながら、論述と言うには詩的にすぎるベラスケス論の朗読を続ける。小さな女の子を傍らに呼びつけて読みきかせる。美しいだろう。そう尋ねて肯かせる。

バスローブに腕を通しながら息子を探すと、あなたが映画をみにいっていいと言ったのでしょう、と妻に諭される。今週三回目でか。大砂塵はすぐれた映画だ。このごろはアホばかりだからな。妻との会話。「テレビ局を訴えてやろうか」「クビにされたから? そんなの負けるだけよ」パンタロンの広告。モノローグ。アテナイ文明、ルネサンス文明、現代軽薄文明。画家論の続きを読もうとして、妻が取り上げる。「仕事のオファーがあったら請けることね」

パーティー。真っ赤な部屋。車にまつわる固有名詞。シンメトリーの右端から男は動いて左へ。次の画面。エメラルドグルーンの部屋。ヘアスプレーの効用を説くブロンドの女と、それを聞く別の男。タバコの煙とともに横切ってなお左へ。次の画面。白の部屋。トップレスの女とスーツの男。左へ。英語と仏語の双方向の即興通訳を介したサミュエル・フラーとの映画をめぐる談話。映画とは、戦場。愛。憎しみ。死。ひとことでいうと感傷。次の画面。車の鍵をフランクに出させる。パイに突撃するフェルディナン。それをまきちらした瞬間、花火のモンタージュ。

これが冒頭の10分。記憶をもとに思いだし書くだけでこれだけの印象があった。この先さらに映像は饒舌さを増していく。マリアンヌが登場し、フェルディナンとのかけあいをはじめて、目と耳への情報はあふれんばかりに増殖する。壁に留められた絵葉書、不自然に配置された銃、テクニカラーの衣装、口ずさむ歌が唐突に伴奏をともなってミュージカルに変わること。支離滅裂といえばそれまで。しかしそこに奇妙な一貫性があるという説得力がある。

独特のスタイルをとっているが、起こったことを誠実に描いて嘘はない。些細なことにこだわって細部を引き伸ばすことと、論理を省略して大胆に切断することは矛盾しない。キャラクターの描写ははっきりしていて、うわべの動機は説明不能にみえても、人間性の論理はたしかに描かれていると信じられる。切迫した語り口が造形されていて、それは一見して断片化しているが、背後にある本当のことはゆるがず、作家はそれをいたずらに語らない。そのようなスタイルによってしか表現しえないものがあるからなのだろう。

軽薄なふるまいをしたり、コミカルで非現実的な展開を織りまぜては脈絡もリアルさも破壊して、ほとんど取りとめがない。でも、嘘や手抜きや妥協の跡があるとは感じない。即興の演技や演出も多くふくまれていて、すべてを計算ずくで作っているとはおもえないのに、一貫した説得力があると信じさせられてしまうのはなぜだろう。ブルジョワ的な引用による知性のひけらかしがくどくないのはなぜだろう。テンポのよさとセンスのよさがあるからだ、というだけで終わらせたくはない。言葉にできる説明原理を見つけ出したい。

断片化したイメージが放り出されていて、それにこちらが糸を通して頭のなかで再構築するよう要請しているようにみえる。そのいっぽうで、すべてを完全に投棄してしまうことはせずに、愛・犯罪・死というかんたんな動機と結末はお膳立てがされている。要約は大枠としては可能であり、細部においては不能である。もし細かく語ろうとするのであれば、場面場面を列挙して、そこで起こったことをひたすら即物的に述べる以外にはなにを言っても空振りにならざるをえないとおもう。