正直なところ、この映画に強い印象や大きな存在感を感じてはいなかった。学生の頃にお勉強で観賞して、ふうん、と思ったくらいだった。つまらないとは思わなかった。ベッドの上でタバコを吸うのは格好いいけど、灰のやり場所にこまるだけだから真似することもなかった。
ゴダールが死んだので観直した。烈しい感銘はやはり受け直さなかった。つまらないとは思わなかった。じっと集中して最後まで観た。あらゆる現代的な手法が模倣されてもなお陳腐にみえずに、みずみずしかったひとつの時代のパリを永遠のものにしていることは、ひとえに凄まじいこととおもう。
警官殺しの悪党の逃走。若く都会的な恋のやりかた。そして安い死による終幕。まあまあ、通俗的なシナリオでさえある。
それくらいの軽薄な素振りがかえって気持ち良い。肩の力をよく抜いて、エゴイスティックなコンセプトはない。美しい女性がパリにいて、外国人としてはたらき暮らす。頭のいい彼女はちょっと悪いフランス人のボーイフレンドと恋をして、ひと夏の冒険をする。ひっきりなしにおしゃべりをしながら。
冒頭、ベルモンドは唇を親指でなぞり、盗んだアルファロメオをかっとばして、「フランスは最高!」とか「女の運転はとろすぎる!」とかひとりでスカッと軽口をたたきながら(それがブツブツと陰気な毒でもなく、ガーッと怒りっぽい叫びでもなく、単に陽気で気持ちのいい大声なのはとてもよい)マルセイユを脱出する。その道の途中でバイクの警官をダッシュボードに偶然あった拳銃で殺害する(フランスではピストルはありふれた武器なのだろうか)。この警官の命は演出上の小道具程度の重みしかないわけで、惨たらしいとしかいいようのない話であるはずが、たいして彼は画面にも映らずにあっさりと撃たれてあっさりとカットされるものだから、陽気なトーンはつまずかない。
そしてパリ。明るい午前中のパトリシアの部屋での長い雑談とじゃれあい。妙に哲学的なことを言ったりするのは単に彼らが若いからで、重くとれば深遠な主題として意識をひきずりこみかねないが、そのまえに軽やかに脱線させることで決してこちらに難しく考えさせようとはしない。妊娠したかもしれないと話したあとに、パトリシアがフォークナーの『野生の棕櫚』の話をする。この小説が堕胎手術の失敗と妊婦の死を扱っていることを知っていれば彼女にその話をさせることはいかにも不穏だが、それさえも軽くいなして映画は走る足をとめない。
単なる路上のカットで不意にジャズを流したりして現代的なみせかけをさせながら、実は最新のモダンジャズは選ばずに、ゴダールは一時代昔のスイングジャズをかけている。徹底的に前衛であろうという気負いはまるでないようにみえる。なにせミシェルが最後の朝に聴くのはモーツァルトのクラリネット協奏曲である。浮足立った前衛を語る前に古典に耳を傾けよと示唆しているようだ。
若い主人公たちの年齢をいまや通りこして観ると、ジーン・セバーグはいっそう美しく輝いてみえるし、ジャン=ポール・ベルモンドはすこし老け顔で、もう若くないのに突っぱるしかできない悲哀にもみえる。
都立家政のゲオでDVDをレンタル。このために会員証もつくり直した。