サントリーホールのサマーフェスティバルというイベントのスケジュールのうち、金曜日の夜のプログラムを聴きにいった。サントリーホールを訪れることも、平日のプログラムに出席することもはじめてだった。一階席の二列目という近さでステージを拝めた。
クセナキスの演奏会があると知って、ぜひに聴かなければならないという切実さを持った。昨年の6月5日にめぐろパーシモンホールにて加藤訓子さんによる「ルボン」と「プレイアデス」のパフォーマンスを観にいって以来のプログラムだった。そのときの感想はブログには投稿していなかった。
「6人の打楽器奏者のためのペルセパッサ」と「オーケストラとテープのためのクラーネルグ」というプログラムだった。前者はイサオ・ナカムラが率いた。後者はクラングフォルム・ウィーンをエミリオ・ポマリコが指揮した。バイオリンの Jacobo Hernández Enríquez さん、ピッコロの齋藤志野さん、バスクラリネットの Bernhard Zachhuber さんといったプレイヤーが印象深かった。
理論を正確に理解して音楽の構造を捉えるというのではなく(そんなことはもとよりできない)、フリージャズとモードジャズを味わうやりかたで聴いていた。暴力的な音楽の瞬間と、モーダルなハーモニーの美しさを記憶した。マイルス・デイヴィスが古代ギリシアの旋法に依拠したことと、クセナキスがみずからのルーツとして古代ギリシアの音楽を研究したこと。もしかするとそこにはっきりとしたつながりがあるといえるのだろうかと印象に持った。こんど図書館にいくときにでもすこし調べてみよう。
コンサート中の細かな出来事とその印象は、この日の夜に紙のノートに日記を書きつけた。それをここに要約しようと思ったが、どうも散漫にしかならなそうであるので止めた。大崎清夏さんが日記を多く書いて、それをそのまま発表せずに寝かせることの意味がわかった気がした。それはまだ消化しきれていない情報を、文字として一時的に貯蔵して、熟成させるようなものかとおもった。その工程を踏まえずに整理に着手することは、きっとうまくいかないだろうという直感がはたらいた。
知的に激しい刺激を与えられるコンサートを観覧できたことを嬉しくおもう。ただし金曜日の夜のイベントはどうしても疲れが出てしまった。それだけがやや無念であった。演奏中に眠ってしまうことこそなかったが…。