詩人・大崎清夏さんのオンライン講演を聞いた。自分の言葉の体系を持っているひとの、言葉の量よりもずっと大きな存在感を画面の向こう側に感じた。このひとのように丁寧に話せるようになりたいとおもった。
自分のことを語りたいという虚栄と俗情。しかしついレトリックを厚塗りして、肝心のイメージが発散する。そういう話し方をしてしまうことはある。本当にいいたいことがあるというよりも、会話の順序を奪われることに怯えて、それを独占しようとして饒舌になっている自分を発見するときもある。穏やかに話していたいとおもっているのに、気づくとどうして空間を埋めるオブセッションに囚われていて、しかも言葉を費やすほどに本当のことからは遠ざかっていく。
英語を話しているときの自分は、少年時代の自分をもっともよく反映しているとおもう。信念に支えられた本当のことを一生懸命に話して伝えようとする。それは態度として少なくともあって、言いたかったことがはっきり伝わったという満足は、外国語を不自由に話すときにもっとも強く持つことができる気がする。英語で書き始めると、大人のエゴが強く出る。日本語で話し書くときはよりひどくどうにもならない。この文章がそうである。
手元のノートに日記を書きつけるだけではとどまらずに、そのイメージを詩に抽象化することを選ぶこと。それをインターネットに公開することを止めて、印刷される媒体に投稿するようにしたこと。外との関係が開いたり閉じたりする運動はなにがもたらしているのか。それを尋ねてみたいと思ったが、質疑応答のセッションは質問を練っているあいだに挙手が殺到、ただちに発言権は締め切られ、整理券が配られて、僕は機会を持てなかった。すこし残念がったあとで、それは聞くまでもなく、たしかな受け手に配達したいというひとつだけの理由であるかとおもった。この追い詰められての思い込みは、かえって説得力を蓄えはじめて、それであれば不用意に挙手しなかったことはそれでよかったようにもおもった。
支配することと支配されることが簡単にひるがえってしまうときに、おおむね過半数の心が自分はこちらに属していると世界を把握するその自意識はあてにならない。自分の定義をナイーブに信じない。気分を過信することもしない。起こってしまったことの最期を看取るようにして観察する。おおやけの文体と、秘密の真実を記録するための文体があって、おおやけにならないことはなにもなかったことと同じではない。