紀伊国屋の新宿南店にてペンギン・クラシックス版を買った。おもしろく読んだ。ウルフを読むのははじめて。詩的なレトリックが頻出する文章を原書で読むことができるのは幸運であった。

たぶん和訳で読んでいたら途中で飽きてしまっていたんじゃないかとおもう。それは急いで読もうとしてしまうためである。わかっていないことがあるにも関わらず、なんとなくわかったふりをすることができるから、そうよそおって突き進んでしまうのである。対して、外国語で読んでいると、書かれている話題を見失ったときに何度でもページを戻って状況を確認してふたたび読み直すことを躊躇しない。

小説のタイトルからみて、ダロウェイ夫人その人が主役であって、彼女の口から彼女の世界が語られるという体裁を想像していた。実際にはそうはならない。それどころか、冒頭の50ページばかりを過ぎると、クラリッサ・ダロウェイに直接のフォーカスは当たらなくなる。セプティマス・スミスのPTSD、ルクレツィア・スミスの結婚への後悔、ピーター・ウォルシュの打ちひしがれての逍遥、バートン婦人の昼食会、エリザベスとミス・キルトンのお買い物、などと群像のありさまをテキパキと併置していく。20年代のロンドンのある夏の一日のスナップショットを、ビッグ・ベンの鐘の音が街のあちらこちらで聴こえることを利用して、多面的に描いている。多くの作中人物を造形して、おのおのの人生と記憶をそつなく提示する手さばきが素晴らしい。

作中人物たちは、若い日の印象と現在の立場によって描かれる。上流階級の社交が舞台となっており、登場人物たちはもっぱら50代の男女である。彼らが若い日々の恋やありえたかもしれない異なる結婚関係を想像したり、現在の決して不幸せではないがいまいち満たされない心地もする生活に思いを馳せたりする。子供を作って、自分の美点は取り入れて、嫌なところは反面教師にしてほしいと願ったりしながら、おおむねその子も親と同じようにどこかすこし満たされない人生を歩むことが示唆されているようである。もちろん、それこそが凡庸な幸せの形であることは、配偶者も子も持たないピーター・ウォルシュの存在によって強調されている。つまるところ、人生とはつまらないばかりであって、社交くらいにしか楽しみの価値はない。そういっているようでもある。