川端康成が読みたいというよりは、京都の話を日本語で読みたいという気分があった。『古都』という作品があると聞き知って、それが新潮文庫から新装版で出始めているということも気に留めていた。その新しい版が区立図書館にあるのを偶然にみつけて借りてきて読んだ。『雪国』の冒頭のパッセージを知っているくらいの知識だけがあって、作家に触れたのはたぶんはじめてのことになる。
読み出しですこし挫折する感覚があった。生娘の視点からあわいすみれの花を愛でる描写がいかにも耽美的で、好ましくおもわれなかった。話の運びも日常のよしなしごとを描いて、まれに些細な人間関係のゆらぎが起こるほかは大きな事件もない。季節の木花とそれに合わせる着物と帯の装いを丹念に描いて、人物の描写には淡々とした印象を持った。
しかしそれは単に、はじめて触れる作家のリズムに乗れていなかったにすぎないものとおもわれる。というのは、語りのスタイルが大きく変わったとは思われず、変わらず静かなトーンが続くだけであるのに、やがてのめり込むようにして読み、なんの解決も起こらない結末を迎えるにいたってたしかな読書の爽やかさを残したためである。いたずらなどんでん返しも、狡猾な伏線の配置もなく、ただ京都の娘のある一年に、季節のうつろいと年中行事の描写を重ねて、はっきりしない風情と情感だけに頼って一本の小説に仕立てている。それが成り立つのは高度な技術のたまものであるとおもわれる。「美しい日本の私」と題して演説することができるだけあって、怖いほどに堂々としている。
清々しく自己韜晦を感じさせない態度であり、迷いを公にみせるタイプの芸術家とは明らかに異なる性質を持っている。伝統礼賛型の人物という先入観があって進んで読もうとしてはこなかったが、その僕の態度こそがつまらない自意識に囚われていたともったいない気分もしている。