芸術思潮としてのモダニズムというのにふと新しく興味がわいて、新宿南口の紀伊国屋の、洋書のフロアを久しぶりに訪れてこの本を見繕った。大学でロマン主義の講義をとったときに、これと同じシリーズの本をテキストに使って、英語のレポートはこういう文体で書けると学部生としては立派ですよ、と指導されたことが念頭にあった。オックスフォード大学出版局による刊で、入門書とはいっても英語の品質は最上だと信じられる。

絵画・音楽・文学を行き来しながら、モダニズムの大きな動きをいくつかのトピックから説明してくれている。平易に言い切ることができずに、範囲を限定したり例外を述べたりする説明の仕方は、やや文の構造を難しくしていたが、そういう細かい目配せがあることこそが、簡明でありながら学術的正統性を犠牲にしない、優れた入門書であることを思わせた。

寓意、神話、意識の流れ。これらはモダニズムと聞いてすぐに思い浮かぶもので、あらためて説明を読んで新しく知るところも多かった。個人と集団、政治。これはただちに想起するトピックではないながら、前衛芸術を特徴づける要素として重要なテーマとして発見した。モダニズムを前衛芸術と言い換えてほとんど違和感がないことも新鮮である。キュビズムはモダンである。ダダはモダンである。十二音技法はモダンである。

前衛といえど、あらゆるマニフェストを掲げて活動した多くの個人と集団があるから、それらをひっくるめてひとことに定義することは難しい。たとえばピカソはアヴァンギャルドと新古典主義を往来した。折衷主義的な色を見せることもあった。直線的な革新運動が可能であると芸術家たちが信じられたのは、彼らとその時代が弁証法的唯物論を信じていたからともいえる。

ハイカルチャーとポップカルチャーの折衷の例はいまやいくらでもみられる。しかし折衷とは、古典と前衛のあいだに見出して創造するものであって、芸術とは大衆文化からも中産階級文化からも独立したところ、本質的にハイカルチャーに属する場所にこそ生じるものである。たとえば技術的な追求は、それがいかがわしさの縁に近づくほどに、芸術の装いを強める。中産階級に好ましくおもわれる程度の技工であれば、それは技術にとどまる。

ピカソのゲルニカは、空爆への怒りを爆発させたものとして通例受け取られる。それはあたかもゲルニカ空爆の生きた報道のようにみなされる。しかし発表の当時、写真報道はすでに当然のものであった。市民にとっての戦争の悲劇は、あるいは写真のほうがずっと雄弁にそれを物語っていた。それにもかかわらず、ゲルニカは報道写真よりも長い生命と影響を残した。歴史を超えて反戦を訴えるから素晴らしいのか? 違う。あらゆる時代と文化の視線をあびて、なおも多義的な神話とシンボルの体系をそのうちに持っているからこそ、いまだにそれは鑑賞され、ふたたび語られる。新たな意味が生成される。

歴史的伝統や主権国家の枠組みに飲まれずに、個人が独立した個人であることを尊重する。いっぽうでそれはアイデンティフィケーションや共感を尊重するというのとは論点がすこし異なるようにみえる。個人主義という意味の個人ではなく、独立した芸術的秩序として個人を定義する。イデオロギーではなく固有の経験として表現がある。それが芸術である。そんなことを言っているような気がする。

神話はあらゆるイデオロギーのアーキタイプである。神話は歴史を従属させる。神話は反復する。しかし神話に飲まれずにわれらは立たなければならない。神話を取り入れて、芸術は個人をもっともよく語りうる…。

いくつものテーマをひとつに統合することは、およそできないのだろう。広い意味の現代芸術をモダニズムと呼ぶ。それが許されるくらいにモダニズムという概念の射程は大きい。ポストモダニズムという概念の存在は、モダニズムの乗り越えを意味しない。100年前のこの思潮は、いまだに有効な芸術的態度である。そうおもうことにした。実際、現代の古典と呼ばれるものはおよそ20世紀初頭のこの時代に生まれたものであるのだから、それがすでに克服されたとみなすのは尊大である。ロマン主義や自然主義はあるいは廃れているかもしれないが、モダニズムはそれさえも折衷しているような気がする。モダニズムから学んで新しい芸術的態度をとるのは、時代遅れどころか必然に近くないか。そうおもった。