新しい小説を読むのはずいぶん久しぶりになる。読みだした最初の10ページほどはなかなかこちらのエンジンがかからずにいた。若い主婦がキッチンに立って独白するという、うまく自分にひきつけてもぐりこめない舞台から話がはじまるので、たしょうの戸惑いはあった。しかしそれはただちに払拭される。

高い自尊心をもつ男の欺瞞と偽善をほのかに感じさせながら、ただちに彼を弾劾するというのではなしに、その妻たる主人公の目に映るちいさな違和感を丁重に積み重ねていく。破綻のきざしをひとつならず垣間みせながらも、核心を乱暴につかみとろうとはせずに、繊細な心理の流れを堂々と描いている。それに感銘させられた。

国際結婚によって日本に移ってきた台湾出身の母と、その娘、日本育ちの若い既婚女性の話である。娘の側は、世間の国際理解の低さによってしばしば落胆を与えられてきたことから、つとめて台湾のアイデンティティを隠すようにしている。それはひとつには物心ついたころの、ひとと違うことを恐れる気持ちにはじまって、やがて思春期の反抗心をブレンドもしながら、日本語のつたない母への不満という形で描かれる。またいっぽうでは、家族の思い出の味として調理した魯肉飯をエリート気質の夫に無下にされ、失望して八角を封印するという描写にもあらわれる。視点人物を母親に置き換えるというツイストも施されていて、彼女の目からみた娘との関係の困難さも重い現実味をもって提示されている。それはつまり、精神的には明らかに未熟であるのに、なまじ自分よりも上手に日本語を操る娘に対して、不器用な言葉でしか本当に大切なことを教えてあげられないというもどかしい思いである。そしてわれら読者は、母娘双方の苦しい状況をひとり知らされてしまっているから、ハラハラとページを繰る手が止まらなくなる寸法である。

家族を描いて雄弁である。母の連なる台湾の家系を郷愁まじりに表現するいっぽうで、嫁として所属することになる夫の家系の居心地の悪さをそれに対比させている。特に信頼もしていない人間たちに、国籍から出産の話題まで、プライバシーをずかずかと踏みにじりながら侵犯される場面はたいへんな緊張感に満ちている。それを踏まえて、夫のもとを脱走して訪れる台湾の家族との交流は白眉である。言葉が通じなくてもわかりあうことができる関係をいっぽうにおいて、言葉が通じていてもわかりあうことが決してできないもうひとつの関係を対照させる。それがおもしろい。

魯肉飯と書いて、われわれは北京語でルーローファンと読むものを、台湾語でロバプンと読む。そうルビを振ってくれている。台湾の魯肉飯の味をわかるひととわからないひとがいて、後者の、非西欧文化を一級下にみて自尊心に満ち満ちた「日本人」こそがおそらくマジョリティなのだろうということは、諦めもまじえて消極的に認めざるをえない。しかしその魯肉飯を愛せずにはいられないひとにぎりの集団もこの社会には存在していると主人公は発見もする。社会通念としての結婚といういつわりの関係を終わりにして、そうした小さいが地に根を生やして揺るぎないコミュニティに身をおいて、台湾人のアイデンティティをふたたび引き受けて、尊厳を回復する。そのプロセスを浮かび上がらせるための小道具として、魯肉飯という一品料理を一貫したモチーフに使って、いちいちそれが効果的にハイライトされるさまが清々しい。楽しそうに食事をするのは善人、食事を粗末にする者は悪人、というアノマリーは一般にあるはず(借金取りたてのヤクザが食卓を台無しにする架空のシーンを想像してみるといい)。ここでは味噌汁とごはんの代わりに魯肉飯、というのが粋である。