パゾリーニによるキリストの生涯の映画化。国内上映権が切れるタイミングで新文芸座が上映するというので、レイトショーで観にいった。

とても嫌な映画だった。詭弁だらけの論破王。ポピュリストの独裁者。そういうフレーズが上映中ずっと頭のなかを走り回っていた。

イエスの主張はウルトラ保守であるから、「常識的に」正しいことを言っているように聴こえる。しかしそれはよく聞くと排外的で閉鎖的な最悪の議論でもある。なにかにつけて「お前は信仰が足りない」だの「お前は法律を知らない」だの、論点をずらして相手の論拠を脱臼させるやり方で自分の主張をする。独裁者の手口である。

自分の主張は譲らずに、他人の話は聞かない。律法学者に金持ちとわかりやすい仮想的をこしらえて、叩く。たとえ話という反論不能な虚構によって議論をリードして、論破のパフォーマンスをする。そういう醜いイエスの姿しかこの映画にはみえない。

主演が悪人顔であるのもどうかとおもう。不細工でも二枚目でも関係なく、悪役の表情というものはある。もっぱら無表情で独演をぶつイエスの姿は、正義の預言者というよりもむしろ、悪にとりつかれた視野狭窄の狂人という格好に近い。言葉の操作の欺瞞に気づかずに、言葉によって真理を伝達していると信じて疑わない姿勢がおそろしい。「言葉で民衆をたぶらかす」というといかにも律法学者のようなものいいだが、事実ここで描かれるイエスは誇張した表現による詭弁で信徒たちをパンチドランカー状態に陥らせ、彼らを洗脳するようにして地位をなしたカルト宗教家であった。聖書を読んでもそうは思わないから、これは配役と演出による映画的効果だ。

そんなありさまであるので、中盤からというものずっと、処刑のシーンだけを心待ちにするようにして眺めていた。しかしいざ十字架をかついで歩きはじめても、たいして苦しんでいるようにも見えず、ごく平凡でつまらないクライマクスだった。これなら『ベン・ハー』の描く同じ場面のほうがずっといい。

一級の映画作家がこれを企画したのであれば、その意図は偶像破壊のほかありえない。つまり、キリストを徹底的に凡庸なファシストとして描いて、その権威を骨抜きにする。パゾリーニがそう企んだのだとすれば、それは100%の成功を収めている。しかも表面上は教会の権威を承認するそぶりをみせながら、根本的にその薄らバカバカしさを暴いている。しかしそうであったとしても、やはり不快につまらない映画である。そういう印象をもった。