散文的に幕を開ける。とりとめがなく、文字通り焦点の定まらないショットが続き、前半部分は眠気を引き出されていた。しかしオイディプスが即位し、テーバイを災厄が襲いはじめてからというものは、否応なく目を見開かされる、感覚に痛々しいシークエンスが続き、忘れられない映画の印象を残した。
狂乱に陥っていくオイディプスの演技が凄まじい。悲劇が新しい悲劇に連鎖するたびに、悲嘆の叫びを繰り返しあげる彼の姿は、みようによっては過剰な芝居にも映りかねない。しかしそのショックの大きさを観客として正しく理解できていて、またそもそも演劇を原典としていることも知っているから、その大仰で過剰に演劇的な演技がなんのいやらしさもなしに、切実な感情の表白と信じさせられる。
王座への上昇と下降のなかで、しばしば暴力性と尊大さを誇示するオイディプスの姿は『スカーフェイス』のトニー・モンタナのようだった。主演はフランコ・チッティ。すこし癖のある短髪に、彫りの深いマスクが彼らを重ねるのかもしれない。アル・パチーノはイタリア系であった。ただしこの映画のオイディプスは、尊大のピークで身を滅ぼすのではなく、みずからの悪(それはそもそも彼が招いたものとは言い難いのが悲しい)が身を滅ぼしたことを受け入れて、罪の大きさに身を捧げて、命は捨てない。衆目のもとで誤って罵倒したテイレシアスの予言を、みずから成就させて、運命を知る。
眉のないイオカステの、無感情にみえる演技もまた印象的である。表情が読み取りづらく、テイレシアスの弾劾を耳にしてオイディプスへの疑いを持って隠しているのか、微塵も疑っていないのか、どちらともとれる演技が恐ろしくみえた。そういう印象があったからこそ、予言を信じるに値するものとしない彼女の主張とその理由を明らかにし、それがオイディプスをひどく追い詰めることになるとき、観客のこちらもまた激しい動揺をおぼえた。
先王ライオスの印象があまりに弱く、その顔さえうまく思い出せないことが致命的であった。俳優の力量か、演出の失敗か。王ではなく従者として殺害されなかったか? という迷いを拭えずに、こちらの見間違いであるのか、プロットの改変であるのかを見極められず、混乱を抱えていた。
ロケーションもまた並々ならぬ荘厳さを与えている。モロッコでの撮影。オイディプスが王になり、テーバイに災いが訪れるという描写。乾いた大地に死体が散らばる引きのショットと、死体の状態をみせる近づいたショット。ケロイドに覆われたうえハゲタカについばまれてさえいるようにみえる死体のありさまは、地獄の蓋があいたような苛烈さであった。
笛と打楽器の、原始的かつ呪術的なおどろおどろしい音楽の効果もはなはだしい。それをロマ的なものとみなして、ロマ文化のなかにも雅楽のような音色をもつ音楽が存在するかと興味深くおもっていたところ、これは雅楽を直接利用したものであったらしい。意味性をはっきりと剥がして、異教的な味つけに成功していた。
印象的なセリフがいくつもあった。レトリカルな表現で記憶することが難しいラインが多かったが、これは最後まで覚えていることができた。「知ろうとするものは存在し、知ろうとしないものは存在しない。」クレオンがアポロンの神託を持ち帰っていった言葉である。
快晴。梅雨明けの報道。夕焼けが消えかける時間から自転車を漕いで池袋へ。腕を耳の横へとあげる所作をするときに、上腕三頭筋の上部に奇妙な痛みを感じることがこの一週間ばかり断続的に続いていた。サドルの設定を高めに変更したことが、運転中の腕に強く負荷をかけていたことに気づく。これが痛みの原因であったかもしれない。