疎外感を感じるのは誰にでもあること。自分ではどうしようもない、神が与えた境遇に苦しむのは普遍的なこと。悩みや不満を共有できる相手がいることはたぶん、心からわかりあうこととはすこし違う。その宙吊りなアイデンティティを、コーダという名前で定義することができて、母数は少ないにせよはっきりと同じ属性をもった同胞を見つけることができるのは、かえって恵まれていることではないかとうがった思いを持ってしまった。
若い白人の女の子たちをもっぱらフィーチャーしているから、コーダの悩みと思春期の悩みが混ざってしまっていないかと感じた。親との関係にしても、コーダに特有の難しい関係性もあろうが、基本的には誰もが子として、続いて親として経験する物語である。悩まない者などいない。聴こえることによって親からの強力な信頼を担わされて重荷を感じることはあっても、『コーダ あいのうた』でそれを羨望する描写があったことにも対応して、それはむしろ家族の愛の強さを思わせて、素晴らしいことにこちらからはみえてしまう部分もある。
コーダの大人たちは、その不安を乗り越えて、コーダキャンプを運営する側に回った存在としてだけ登場する。しかしコーダの悩みを普遍的に選ぶのであれば、男の子たちにとってのそれはどうか、とか、大人になっても苦しむひとはどうか、とか、もっと多面的な切り取りかたはなかっただろうかと気になってしまう。非白人のコーダとして、東日本大震災での被災体験を語る男性も導入部でわずかに登場したが、彼もやっぱり悩める個人というよりは、自立した大人として映されていたようにおもう。
こちらはといえば、思春期などはるかに通り過ぎていい年をしているにも関わらず、気分は学生のころとさして変わらず、ウダウダとした迷いがおおい。地元にいても物足りなく、しかし東京に来ても、欧米に行っても、いまいちピンとくる居場所はまだ見つけられていない。英語を話せて、日本語も話せて、地元の方言も話せるというときに、自分の居場所はどこなのだろうと迷ったことは何度もある。いっそ大学にさえ進まず、地元にとどまることを選んでいたのならどうなっていただろう、と想像したこともあった。
コーダの少女が、いっそろうになりたいという願望を見せるところは、普遍的な実存の迷いを描いているが、問題提起のスコープとしてはあくまでコーダという存在に着目したものであったから、自分の問題に重ね合わせて考えることはうまくできなかった。