大学3年のとき、『ペルシア語文法ハンドブック』という文法書を、その著者の吉枝先生の研究室で買わせてもらった。それをカナダ留学に持参して、在カナダのイラン系移民の子どもたち(彼らは親の言葉を話せないのだった)と一緒に、ペルシア語の授業を受けていた。英語を使って別の外国語の勉強をするというのは初めてのことで、例えば単語を覚えるにしても日本語との対応において暗記する代わりに、英単語との対応関係で学んだ。
高円寺のボルボルというイラン料理屋を、年に2回は訪れている。今年は3月21日、春分の日に食事に行った。ノウルーズとはペルシア語で新年といい、その日はお正月のお祝いをしにきたイラン人たちで大繁盛していた。
クルドという民族については、そういうイランへの関心からいつか知ったものだった。民族自決と騒がれた時代に、近代がひいた国境によって分断され、国家を持たない民族となったひとびと。日本では、埼玉の蕨にコミュニティが存在して、しばしば建設現場で働いているらしい。
あらかじめ持っていた知識はそのようなものであった。まったくなにも知らないわけではないけれど、知り合いがいるわけでもなく、結局のところは他人事となってしまう。そんな折、この映画が日本におけるクルド難民を扱って評判を呼んでいるということを聞いた。ぼくが知るころにはすでに公開からしばらく経っていて、一日に一回だけの上映とうまくスケジュールを合わせられず、なかなか観にいけずにいた。しかしこの週末は午後に上映があることを発見して、月曜日で終映するというギリギリのタイミングで、鑑賞に駆け込むことができた。
ひとりの若い女性の話として虚構化されているが、ひとつひとつの嘆かわしい挿話は、実在するある家族に訪れた事件のルポルタージュになっているのだと信じざるを得ない、切実な真実味をもって提示される。
日本語、トルコ語、クルド語を操ることのできる彼女は、家族からも、クルドコミュニティからも、アルバイト先からも、アパートの大家からも、一人前の大人として信頼を得ている。そういう立場があるから、彼女はまだ高校生であるにも関わらず、どこか周囲よりも大人びた態度を人格のなかに刻んでいて、思い悩むその後ろ姿は、とてもティーンエイジャーのものとは思えない悲壮感を持っている。
学校に通い、アルバイトをして大学を目指そうとする聡明な少女が、彼女にとってはどうしようもない出自の問題によって足をとられて、すべてのものごとが悪い方向に進んでいってしまう。その一連のシークエンスは、あまりの痛々しさに目を背けたくなるものであった。抑制的であるからこそいっそう深い苦しみを感じさせる演技で、日本におけるクルド人という立場を切実に表現しきったのは、嵐莉菜さんという。モデルの仕事をもっぱらとしていて、映画に関しては主演はもちろん出演も初めてとなる作品とのことである。
彼女の家族や友人をめぐる、いきいきと楽しい時間が実に幸せそうに描かれていることも優れていた。悪い知らせを受けた帰り途に、一家でラーメンを啜るシーンがある。そこでの家族の屈託のない会話と天真爛漫な笑顔は、演技の衒いがなにひとつみえない、ごく自然な幸せのありかたを映し出していた。それから、高校生の異性間の、友達以上恋人未満といったようなぎこちなくも優しい信頼関係の描かれ方もいい。アルバイト先の同僚というだけに過ぎなかった関係が、クルドというアイデンティティをすこしずつ開示するやり方で接近していくストーリーは、決してあせらずゆっくりとしているが、その緩やかさこそが青春の恋とも友情とも言い切れない甘やかさを示していて素晴らしかった。その相手役を努めた奥平大兼さんという名前もしっかりと覚えておきたい。
日本の入国管理局の問題というのは、その惨状がニュースで知らされることは少なくない。それをあらためて提示されて、正直なところ正視するにしのびない思いがある。ひどい話だとはおもっても、なにをどうすればよくできるのかもまったくわからない。関心を持つのが第一歩と聞いたりもするが、知って黙っているのも誤っている気もする。広く世界の難民問題とみれば、たとえば UNHCR に寄付するなどの支援のしかたがあることは知られているけれど、国内の行政の矛盾というのはいったいどうやって是正すべきなのか、と難しい問題を突きつけられて、どのような答えもまだ持てずにいる。