不真面目より真面目のほうが優れているかのような錯覚にとらわれてはならない。不真面目が多様な相を持っていることに比べて、真面目ということの凡庸さはおおいなる不自由を生じさせる。

真面目という言葉は雑である。「なんとなくいいこと」くらいの意味であまりに無作法に運用されている。そのくせいたずらに広い意味を担ってしまっているから、ろくでもない。「注意深い」「誠実である」「堅実である」「心配性である」など、いろんな意味をおおざっぱに束ねて「真面目」などと言い切っている。そんなあいまいな言葉でひとを定義づけるのはやめておくのがいい。

注意深さが転じて心配性になっているのであるとすれば、マイナスの特質ともなりえる。真面目なひとほど鬱になりやすいというのは、こういう傾向の持ち主のことを言っているのだろうとおもう。

勤勉さや誠実さを称賛するのであれば、ひとまず悪い気はしない。しかし誠実さだけを取り柄とすることなど、いわゆる優等生タイプでしばしばつまらない性質に帰せられるものである。他に目立った特質がないにも関わらず、なんとなくポジティブな評価を下したいというときに、ふたたびおおざっぱに持ち出されるのがこの「真面目」という言葉でないか。それは結局のところ、学校であれば教師、軍隊であれば上官、刑務所であれば刑務官であるところの彼らからみて、従順で御しやすいタイプの人間であるという烙印ではないか。そのような評価を内面化して、真面目であることこそ自分のかけがえのない特質と錯覚するとなると、もはや彼は滑稽なまでに愚かである。

芯において誠実であることと、行為として保守的であることは、両立する必要はない。真面目であらねばならないと自分を律するのはやめたほうがいい。

不安な気持ちが大きいときに、ひとは堅実、真面目であろうとする。しかし出発点としておかれているはずのその不安とはなんだろう。その前提は意味をなしているだろうか。真面目にやっていれば報われるはずという気の抜けた誤謬に支配されていまいか。なにについて報われるのだろう。金か名誉か尊敬か? そういう浅ましいものと引き換えに真面目と呼ばれて、いったいなにが嬉しいだろう。

真面目であろうとすることは止めよう。のびのびと無責任に生きよう。不安は不健康の第一歩。積極的な無関心から初めて、健康のために不真面目を通していきたい。