2018-19年に恵比寿のシェアハウスに住んでいた。そのときに仲良くしていたメンバーとの飲み会にいった。19時に飲み始めて、3時過ぎにタクシーで帰った。悪い飲み方をしたつもりはなかったはずなのだが、ひさしぶりにひどい二日酔いに見舞われた。8時間も飲み続けていたのだと振り返ると、反省の余地はおおいにある。

ドイツに渡るといってその家を出たのだった。それ以来いっさい会えていなかった面々であった。向こうからしてみると、帰国していたということがそもそも意外な様子だった。それはそうか、と伝えそびれていて申し訳ないような気持ちと、なんだかんだで再会できてよかったという気持ちがあった。

恵比寿にいたころはほとんど週末ごとにこのようにして朝までわいわい遊んでいたのだった。通勤し、退勤し、ドイツ語の勉強もこなしながら、遊びを我慢することはなかった。それがいまや、労働環境の制約からは自由になったはずなのに、かえって自由は小さく、我慢は大きいような気がしている。ふたつを並べて観察してみると、いまの状況のほうがずっと息苦しい感じがする。

ドイツから帰ってきたとき、あとにやってきた感情はパンデミックに計画をズタボロにされたような失意と無力感であった。それがもう2年前のことである。変容した日常に適応するには十分な時間である。この2年、それはぼくの人生のなかでもっとも希薄な時間でもある。どれだけの新しい交友関係が築けたか? 信頼できる友人がひとりでも増えたか? そういう問いにポジティブに答えるのが難しい状況は、これまでの人生のうち、いつになく悲しいものである。

ここ数年のいきさつを求められて話すうちに、帰国してから過ごした時間の空虚さを強く感じて、ひどく切なくなってしまった。いまのぼくが、やりたいことをやっているとか、なりたい姿に近づいているとは、どう考えても信じられない。嘘の人生を生きて時間を無駄にしているんじゃないかというのが恐ろしい。パンデミックだから仕方ない、などといっていろんなものを諦めてしまった。それは仕方のないものであったようにも思うが、仕方がないという欺瞞を深く疑わずにあいまいに生きてしまった後悔のほうが大きい。

いま、海外に渡航するひとも周囲に増えてきているというときに、ぼくはまた海外に出て行きたいのか、それともそれを先延ばしにするのか、あんまり真面目に考えられていない。そりゃあ行くのと行かないのとだったら行くほうがおもしろそうに決まっているのだけれど、それを叶えるために猛烈に努力してそれを現実化させるほどのエネルギーをただちに持てる気はどうしてかしない。安穏と暮らしすぎたかもしれないし、ひどく萎縮してしまっているのかもしれない。いずれにしても、嬉しいことではない。

どうしたいかというのはさておき、いまの状況に不満足を持っていることは知覚できた。この2年間で新しい交友をほとんど持てていないことにも気づけた。一度できた友達とは、すこし時間があいたところで、いつでも楽しく遊びなおせるということも教えてもらった。二日酔いが苦しいことも久しぶりに思い出した。ずいぶんと多くのものを得た夜だったではないか?