昨日は早起きをしたおかげで早寝をすることもでき、おのずときょうも早くに目が覚めることになった。手持ち無沙汰に就業してしまい、予定もないのにはや上がりになりかねなかったところ、なんとなく映画館を物色していて、いい時間の上映を見つけた。アップリンク吉祥寺は、土日にふらふらとおとずれると混雑していることが多くて、利用するのはきょうが初めてだった。
同僚たちは仕事を続けている時間で、就業時間外では通知をオフにしているこちらのスマホが最新のメッセージの受信を不躾にも教えてくれるものだから、開演の直前までやりとりをしていた。悪癖である。返信しそこねた最後のメールが、もしかしたらこちらが小さな失策を犯したかもしれないという考えを頭に植え付けたまま、開演を迎えた。そしてそれが小さくも意地悪く頭にこびりついてとれない。せっかく映画館にいるのに俗世の些末な問題にとりつかれている自分の情けなさがさらに嫌な気持ちを増幅させて、映画の出だしにしてはこちらの気持ちは最低に近かった。
それを吹き飛ばすに余りあるパワーをもった作品であることに救済された。印象的なシークエンスはいくつもあった。歌うことへの言葉にならない思いを指と身体でおずおずと、しかし自由に表現し、手話を理解しないはずの先生がそれに満足げに微笑を浮かべるシーン。普段は同僚たちの蚊帳の外にあるパパが、不条理な権力に対する激しい感情を聴者たちの前で爆発させ、仲間の漁師たちをエンパワーするシーン。バークリーに進学することを宣言したときのママの困惑と対比させて、いつもは破天荒なパパが穏やかな表情をみせるシーン。両親のために進路を犠牲にしようとしているルビーに、バカ兄貴が荒々しい手話で激怒するシーン。いくらでも挙げられる。
奇をてらった展開はほとんどない。青春映画の王道をいっており、話の行き先はおおむね予想がつく。しかしそれを非凡なものにしているのは、主人公の家族の、万事快調はないけれど哀れみを決して与えない強さであり、その自然で伸びやかな演技であり、また彼らのもつ美しい言語である。
美しい言語。聴者にとって手話がパントマイムのようなもののようにみえてしまうのは、異文化理解の本質的な難しさのあらわれである。しかしこの映画の冒頭、インキンタムシに罹患した両親が、その苦しさをユーモラスに手話で話して、字幕に教えられるその比喩のバカバカしいほどの巧みさがぼくたちを笑わせるとき、ろう者も聴者も同じ人間であって、ただ異なる文化のなかに住んでいるだけだということがはっきりとわかる。言語が違うから、文化も違うというだけである。声をもたないことをディスアドバンテージとみなしかねない聴者のものさしはたちまちにしてへし折られる。
『ドライブ・マイ・カー』でも印象的な手話の描写があった。ぼく自身がそれにグッときたことを書いている。しかし鑑賞の順序を逆にして、『コーダ』でろう者の実存を知ってから『ドライブ・マイ・カー』を観ていたならば、そう無邪気に共感を寄せることはできなかっただろう。そのようにして、これを観る聴者の意識を変え、世界を改造してしまうパワーが『コーダ』にはある。
折しもサイレント映画、『グリード』を前の日に観ていたばかりというタイミングでこれをみたというのはずいぶん示唆的である。音のない世界からはじまった映画が、100年後にあらためて音の不在を描いて、無音という豊かさを語り直している。
パンフレットも充実している。ろう者の俳優たちにとってはとりわけ記念碑的なキャリアに違いないこの映画に寄せて、彼らの述懐を書き起こしたテキストは、あるいは手話で語るよりは雄弁でないかもしれないが、しかしくっきりと芯があり、目を背けられない。
パパ役のトロイ・コッツァーがアカデミー主演男優賞を受賞したということは、ずいぶん遅れてきょう知ったにも関わらず、まるで自分の父親が受賞したかのように嬉しい。そういう親近感の錯覚を覚えさせる演技とユーモアが、パパのみならずルビーの家族みなに共有されていた。
日本公開が1月21日で、アカデミー賞が発表されたのが3月27日。受賞は知りながら、ウイニング上映にも足を伸ばさずにいた。上映終了が近いというのをほぼ唯一の理由にして見に行ったわけだが、えてしてそうやって出会った作品こそ心に残るものであろうか。見逃さず幸いだった。
物足りないところを挙げるとすれば、フィナーレに向かうあたりから見えはじめる、やや安っぽい展開がそうである。家族への献身を選んだはずのルビーがやすやすとオーディションに向かうあたりから、取ってつけたような印象が拭えなかった。そこでの手話つき歌唱にしても、ここではどちらかといえばパントマイム風の手話にみえたし、ボーイフレンドのあつかいも最後だけ雑だった。
ゆっくりと積み重ねてきたルビーの繊細な葛藤のひとつひとつが、大雑把などんでん返しによってなかったことにされてしまっていないか? 彼女の悲壮だが切実な覚悟を踏みにじっていないか? 残された家族は問題なくやっていけるように示唆して幕を下ろすが、その「普通の幸せ」の難しさをこそ描こうとした映画だったのではないか?
ルビーにはどちらも捨てがたいふたつの将来があった。その迷いへの回答を用意しないと映画が終わらないというときに、「若い女性の自己実現」というテーマが急に前景化したせいで、主題がブレてしまっていないかを危惧した。あるいはまさにそれを得点源にして作品賞を獲ったという意地悪な見方もできてしまう。しかしこの映画が最後に問いかけるべきであった問題は、等しく尊いふたつのものがあるときに、そこからひとつ、必ずひとつだけを選ばなければ前には進めさせないという、この社会の奇妙な習俗ではなかっただろうか?
この一点を補ってありあまるよさを備えた映画であるとはおもうけれど、ほかならぬこの一点によって、「歴史的傑作」になるチャンスを逃して「今年の受賞作」になってしまわないかとおもうと、惜しい気もする。