1-8章では『一般言語学講義』の概要を解説する講義が語られて、9-10章で丸山先生のソシュールに依拠した文化論が語られる。

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チョムスキーは知っているけど、ソシュールは大学の講義で聞き知っているくらいで、ちゃんと読んだことがない、というくらいの気持ちで読み始めた。そんな気持ちがあったような気がするのだが、そういいながらも『一般言語学講義』にチャレンジせずに入門書を読んでいるあたりが頼りない。しかしその『講義』にしても学生の講義ノートから構成されているものであったのだったと、この本を読むにつけて思い出した。実際、『講義』の原本においては、学生がノートを取り間違えてしまっているようなこともあれば、ソシュール自身が自分の用語法の罠にかかって間違った説明を加えていることさえあるとのこと。徒手空拳で突撃するにはあまりに難しい理論だったとおもい、正しい入門書を選ぶことができたのはよかったとおもう。

「ラングとパロール」「シニフィアンとシニフィエ」のようなビッグワードは概念として知っていた。表層的にはおおきく外れずに把握できていたような気がするいっぽうで、本質的にはまったく理解できていなかった。しかもそれは、この本を読んだことによって本質がはっきりと理解できた、というわけでなく、読んだことによってますます難しさを増した、というのにより近い。

ここだけははっきりさせておきたいとおもったところを書く。

まず、「ラングとパロール」「通時態と共時態」のような二項対立が導入されるとき、それと二律背反(トレードオフ)とははっきりと異なる。ソシュールがふたつのものを対立させて語るとき、それは単純に並べて分類したり、両者の差異を観察するためのものではない。言語とは個人的であると同時に社会的であり、同時代的であると同時に歴史的でもあり、関係そのものでありながら関係づくりでもある。なにかと両義性がつきまとうのである。すなわちこれらの独特の二分法は、白か黒かを確定させるための分類でなく、それらが目の前で起こす相互作用を観察して分析するための道具である。相互作用するそれらは実のところ、はっきり境界が引けるどころか、流動的で相互依存的である。

言葉とは自然に生まれたものではなく、人工的に区分されたデジタルな空間である。しかもその人工性は文化という歴史に深く根ざしているから、われわれは言語から逃れることもできなければ、言語にはたらきかけて機能を変えることもできない。あらゆる意味は、アプリオリな実体を言葉によって描写するものではない。主体が対象を発見するのではなく、主体が対象を作り出す。これは徹底的に主観的な世界のモデルで、そこで客観的な分析というのは意味をなさない。そもそも主観的に構成された世界のなかにあって、客観性を重んぜよと命じる自然科学は不可能ではないか? という理屈が導かれる。ラディカルだが、切実な問いである。反科学が危険な思想の香りを振りまいているのは100年前も同じことであった様子で、「正しいことを正しく主張すること」の難しさから、ソシュールは沈黙におちいる。それが、『一般言語学講義』が学生のノートのなかにしか存在しない理由のひとつである。

ソシュールが批判の対象としたものは、多様な質でしかないものを、量的な差異、数量に還元してしまうという、近代科学一般がもっている避けがたい傾向です。数学はもちろんのこと、経済学も社会学も心理学もみなそうであり、言語学も例外ではありません。[…]
 本当に〈生きられる世界〉においては、一つの苦痛がもう一つの苦痛の何倍であるとか、何分の一であるとか、またある愛情が、もう一つの愛情の自乗であるとか平方根であるとかいう計量化は不可能なのです。
 そしてソシュールにせよ、その二歳下のベルクソンにせよ、十九世紀後半というパラダイムの中でこのような哲学を樹立することは、決して容易なことではありませんでした。一つには周囲の無理解という壁もありましたが、もっと大きな壁は、自らの内にひそむぬぐいがたい〈時代の精神〉であったでしょう。パラダイム変革の契機となった人々も、そのパラダイムの中に生れ、はじめからパラダイムを超えていたわけではないからです。ソシュールのぶつかった壁も実は彼自身の内部にあり、それがあの謎の沈黙の真の原因でした。 p.108-110

こうまとめ書きのようなことができたからといって、ゆめゆめ理解できたなどとおもわないこと、とみずから戒めておく。ここにはもっと多くのすごいことが書かれていて、それらにいちいち感動を味わっていたはずなのに、いざ読み終えてみると自分の言葉で説明できるほどに理解できたといえるようなことが少なすぎる。わかったような気になったほどにはわかっていないということのあらわれであるから、それを忘れないこと。