大型連休をつかって放送大学のテキストを読み進めている。きのうは解析で重積分の導入に、きょうは線形代数で複素ベクトル空間の導入に取り組んだ。
大学のテキストだけあって、正しく数学的な手続きで定理を示してくれている。つまり、定理とその証明をレトリックでごまかさずに記述している。簡単に読んだだけでは、論理の流れを見失ってしまう。そういう場面は少なくない。しかし不思議なもので、テキストの記述をそのままノートに手書きで写していくと、その途中ではっきりと理解がおとずれる瞬間がある。
むやみやたらに手を動かして書くことが大事というのではない。ひとつひとつの表現をゆっくり飲み込んでいけば、全体の意味は明快なのである。単に文字記号を勘違いしているだけのこともあるし、注意を払っていなかった小さな記述が重要な意味をもっていることにハッと気づくこともある。いずれであっても、テキストをゆっくりと、虚心坦懐に読んでいけば、きちんとわかるように書かれている。優れたテキストなのだとおもう。写経を徳と見出した昔のひとは偉いなと感心もする。
わかるまでゆっくりと精読するという習慣は、外国語を読むための技術としてつちかった。実際、数式と証明を読むというのは、記号の操作の論理を読み解いているわけで、これは言語を学んでいるのと変わりない。外国語の勉強をしてきた経験が、粘り強く読んで理解する能力という形で活きてきているのかもしれない。そうであれば誇らしいとおもう。