国立新美術館に観覧にいった。ダミアン・ハーストは、牛やら鮫のホルマリン漬けをあつかうコンセプチュアル・アーティストという印象を持っていた。それだけに、桜といういくぶん日本の観客におもねったともとらえうるテーマの個展がアナウンスされて、やや肩透かしを食った気がした。とはいえ、存命の作家の個展を国内でみられるというのはまれなことである。

露悪的な作家という色眼鏡でみてしまっていたのはこちらの責に帰するようであった。桜というモチーフは、日本向けの企画ではなしに、直近の彼が桜を好んで題材にしていて、その連作の一部をカルティエ財団がパリで展示したものの輸入であるらしい。

107作のシリーズのうち、2018年の作品を中心に24点が展示されていた。いずれも2メートルを超えるスケールをもった絵画で、見応えがある。また連作の性質上、クロノロジカルな流れが存在しないことを反映して、会場には最低限の仕切りをのぞいて壁がなく、順路も与えられていない。キャプションのたぐいもない。広い会場を足の向くままに往来して鑑賞する自由が与えられていて、そこに楽しさがあった。

ある桜の前で写真をとるにしても、自撮りをするひともいれば、ただ桜を撮る人もいる。ベンチに座り込んで遠くから眺めるひとがいれば、近くによって細部をなめるように観察するひともいる。ひとの流れがランダムになって、あちらこちらでガヤガヤとしはじめる感じなど、花見のお祭り気分そのものであった。飲酒が否定されているという事実だけが、美術館という規範を意識させた。

ゴテゴテの厚塗りの点描とアクション・ペインティングによる、リズミカルな桜であった。薄水色のうえに桃色と白を中心にしたパレットで色を並べる。ただし白と桃色だけでは絵に生気は宿らない。どぎつい赤や青がところどころに差してあることによって、花のなす光が網膜のなかに再現される。逆説的な配色によってはじめて、キャンバスがいきいきとしはじめる。それがおもしろい。

淡い点の集合が桜のイメージをぼんやりと浮かび上がらせる。細部が全体であり、全体が細部になっている。それがひとつの有機体に統合されるのではなく、むしろいびつな形態として立ちあらわれる。しかしそのいびつさこそが樹の生命への敬意のようにもおもわれる。枝と花のダイナミズムは、ひとの手によって小さくまとめられるものでなく、常に予期せぬ方向に暴れるものである、という美学があるようにおもわれる。パっと咲いてパッと散るはかなさに、作家の生と死に対する問題意識を指摘するインタビュー映像の上映もしていた。

あきらかに抽象画なのに、抽象画と思わせないキャッチーさがあった。ゴールデンウィークの初日は大雨であったが、この展覧会は千客万来という具合で、商業的にも奮っているようにおもわれた。