静かな映画である。ずっと会話が続いている。品格のあるひとびとが中心にいる作品であるから、ダイアログはいつも穏やかで、暴れない。演技も抑制的で、叫ばないやりかたで感情の動きを表現している。音楽もそう。アンビエンタルなサウンドトラックが映画館の音響でとても気持ちよく聞き取れる。ベートーヴェンの弦楽四重奏が流れるのもいい。ガチャガチャすることがない。家福が北海道を訪れる段になると、音がなくなりさえもした。一見して極めて重要にもみえない、車が走るだけのシークエンスで音を隠す。驚きのある演出だったが、静けさに注意を向かわせる点で強い効果があった。
パク・ユリムさんの演じるユナという、発話障害をもって韓国手話で舞台にあがる女優の役が強く心に残った。メインのプロットに深く関わるわけではないが、オーディションへの登場でも、家福らと食卓を囲む場面でも、最終盤の舞台での演技でも、鮮やかな印象を残した。彼女の演じるソーニャの台詞が、映画のなりゆきに呼応して意味を変えていくのが、感動的であった。それはユナが登場するオーディションの場面で、はじめは淡白に提示された。中盤の、公園での稽古でのジャニスとのやりとりで「なにか」が起こる。派手ではないが特別な瞬間が訪れる。その「なにか」を、本番では観客とのあいだに再現するのがゴールなんだ、と家福は宣言する。そして家福がワーニャとして舞台にあがる最後のシークエンスで「なにか」はたしかに起こる。
「長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。」1といって展開されていく優しいパッセージ。手話で語られることもあいまって、あまりにも強靭な優しさの表現にポロポロと涙が出ていた。「チェーホフのテキストは恐ろしい」と家福が述べていた。その意味が最後になって襲いかかってくる。
その「なにか」を手なずけてしまっている濱口監督がおそろしい。「なにか」を観客に届けること。家福の演技論として提示されているが、たぶんこれが濱口監督の創作論なんだろうとおもう。「なにか」がなにであるかは、明らかにされない。それを正確に表す言葉をわれわれがもたないからにほかならない。それは非言語の領域にある。その言葉にならない「なにか」を、濱口監督は狙って引き起こしているようにみえる。そんなことが可能なんだろうか? しかしあとに残った情緒は、それがたしかに達成されたというものであった。
言葉によって演じる。それは映画とか舞台に限ったものでない。会話があればそこには虚像がまじる。げにひとは演技によって近づき、演技によって隔たる。
これが結局なんの話だったのかはわからない。家福の成長をあつかう物語と要約することはできない。感情の変化はたしかに彼に訪れる。しかしそれが3時間のすべてを総括するというわけではない。いろんなことが起こって、最後に情緒の盛り上がりがある。しかし全体として、これがなんの話だったのかはわからない。
それこそがコミュニケーションであり、映画であるということになるか。話し合いが終わることはない。完全に理解しあえた、とおもうとき、その関係にはすでに破綻のきざしがある。わかりあおうとしてひとは近づくが、わかりきろうとすることは無謀である。本当のことを知ろうと望むのは、いつも危険をはらむことになる。そのメタファーがこの映画であるように受け止めた。いったいなんだったのかはわからないが、「ああなんかわかるかも」となれた。それは素晴らしいことであるし、それ以上を望むのは強欲になる。
小さなエピソードをいくつも提示しながら、ひとつひとつのモチーフを無理に統合しない。上手にそれらを敷き詰めて、緩やかにひとつの話を述べている。その繊細なやり方が気に入った。
楽器をひくとき、大きい音を出すのは難しくない。思い切り鍵盤を叩いてみたり、アンプのボリュームを最大にすればいい。技術はそれほど必要ない。小さい音を出すことこそ技術である。そこには繊細さがあって、小ささに耳を澄ませるからこそ聞き取れる、わずかな質と量の違いが際立つ。そういうことを感じた。大味で要約しやすいラウドな作品も好きだし、そういうものに人気は集まる。そのときにその逆の、デリケートな動機に満たされたこのような作品が広く受け入れられているのは素敵なことだとおもう。
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チェーホフの『ワーニャ伯父さん』は青空文庫で読める。そこから引用させてもらった。https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51862.html ↩