でも、文法には説明の気持ちよさがあるんだよ。特に関係がないと思われていた複数の事柄とか、例外に思えていたものが統一的に説明される気持ちよさ。1
数式を美しいというのと同じように、文法は美しい。ごく少ない文法規則、例えば英語であればたかだた5つの文型にもとづいて、およそあらゆる意味が生成できる。文法はしばしば条件と例外を伴ういっぽうで、数学もまたそれらから自由であるわけではない。
文法は言語に先立たずに、個別のことばを収集処理して規則を抽出したものが文法である。ある現象を抽象化して定式化する。その美しさは優れた数式やプログラムの美しさに似ている。現象を分類してモデル化し、条件と例外を局地化して極小化すること。冒頭に掲げた引用部を読んで、その共通項がにわかに前景化してきた。
この本を読んだという前置きつきで、友達に文法の話を熱弁していたら、「いよいよ始まったね」といわれた。
自分でもすっかり忘れていた話になる。就職活動に思い悩んでいたとき、こういう話をした。大学院には行きたい。できれば博士課程までいってみたい。しかし真面目に考えれば考えるほどに、高学歴ワーキングプアの恐怖がリアルなものとしてのしかかってくる。まずはその不安を払拭しないといけない。
そういって、就職を一年先延ばしにして、プログラミングのアルバイトをはじめたのだった。これが僕と僕の仕事の出会いである。学生を続けるために割のいいアルバイトをしようという、それは手段であった。やってみると面白いもので、簡単に熱中した。熱中できるだけの適性があることもわかった。大学院にはあとで戻ってこられるから、アルバイトといわずもうすこし深くやってみようという気になった。
そのことを忘れていた。もっといいプログラマーにならないといけないような気がするいっぽうで、それが自分のやりたいことなのかがわからずに迷っていた。でも最初から、プログラマーになることが目標ではなかった。抽象的に考えるのは好きだ。だから、サービス開発よりも数理の世界に行きたいような気もした。大学院に行くのがいいのかな、とまで明瞭に悩んでいるそのときに、人文学への未練はいっさい意識にのぼっていなかった。
そうやって変遷する僕の興味を、友達はよくみていてくれた。プログラマーの仕事を選んだ理由が、大学院にいくための準備であるというのも覚えていてくれた。ゆえに、文法の話をしだした僕をみて、いよいよ原点に戻ってきたという感慨をもったらしい。
中学生のときから英語が好きだった。文法を知るのがただ楽しくて、世界中のひととと話せる、みたいなスローガンはどうでもよかった。たまたま英語教育がそこにあったというだけで、母語でなければなんでもよかったのだとおもう。その興味が持続して、それにもとづいて大学を選んだ。
この本の冒頭で、文法が社会を規定するという話が提示される。言語が主体を形成するという話、これは大学の先生に言い切りの形で提示されたものが心に残っていて、言語が中心にあるという観念には触れていたが、言語を文法、主体を社会とそれぞれ言い換えて把握するやり方は、その理解を一段拡張してくれたようにおもう。
人文書を読むよりも仕事をするか数学の勉強をしないといけない、と自分に規律を与えていた。それが合理的であるつもりでいた。実際には合理のお仕着せによって、かえって不自然な負荷が蓄積していた。その歪みが不安や気の迷いにあらわれていたようにおもう。
原体験が万能薬であると思い込むのも正しくはないようにおもうが、言語への興味はプログラマーという職業への興味よりもずっと前からあった。それは確かなことである。忘れていた、あるいは無意識に抑圧していたその関心をあらためて浮上させてくれた読書として、僕にとっては感動的な体験だった。