漱石の『硝子戸の中』を読んだ。ひとりで物思いに耽る、そういう意味の孤愁という単語は、石原千秋の解説文に教えられた。新潮文庫版である。
晩年の漱石が、広くはないが狭くもない部屋の中で、豊かではないが貧しくもない生活をしている。若い日の記憶のなかの友人知人たちの思わぬ訃報が増え、またみずからも身体を病んで、人生の不愉快さに辟易している。そう投げやりに思いつつも、生を決定的に否定するほどの論理も与えられずに、だらだら病と共存している。まさしく『こころ』の「先生」のような、あいまいなやるせなさを抱えて生きている。
やがて随想は幼い日の枯れた記憶におよび、とりとめのない身の上ばなしの様相をみせはじめる。思い出すことは無尽蔵にあるが、どれを話してもおもしろいことなどないという諦めも持っている。あげく、人生のうちで残してきた立派な著作さえも、なんの意味もないものであって、徒労と年齢ばかりを重ねてきたような気さえする。その壮絶な無意味さを滑稽におもって、絶望に沈む代わりに子供のようにケラケラと笑っている。
彼はイギリスでいちど挫折を経験している。帰国して、帝国大学でのキャリアを進むことにもまた挫折している。くらぶべきはずもないと良心では思いながらも、僕はつい自分自身の挫折をついそこに重ねている。洋行、帰国、学問からの脱落と激しく抽象化して、漱石もあるいは同じような悩みを持ったかもしれないと想像する。だからどうなるというわけでもなく、気まぐれな夢想にすぎない。そうは思いつつも、どこか特別な作家として、僕は彼に心の一角を明け渡している。
過去を懐かしく思い出すとき、浮かんでくるのは8歳あたりから、新しくても20歳ばかりの思い出となるらしい。僕は老いを語るにはまだ早いはずだが、思えば20を過ぎてからの楽しい思い出は、少なからぬ無常をともなっている。幸せなときには、心ゆくまで幸せでありたいと努めたが、それはその幸せがかりそめであるという恐ろしい考えに支配されないための防衛術であった。不幸せなときにも、その不幸せは単なる気の迷い、心が見せかける幻想にすぎないと突き放してから認めるしたたかさを持つようになった。喜びと悲しみのいずれにしても、ひなびたクリシェを繰り返すだけのようなつまらなさが目立つようになってしまった。
言い間違いや言葉遊びが、その人の心理を映し出すという論理が、古典的な精神分析の世界にあるらしいということを読んだことがある。おもしろい話だとおもって記憶していた。
先日、冗談の帰結として死を持ち出すことが多いことを指摘された。死にたい、と直接いってしまえるようなナイーブさは持たず、むしろきちんと生をまっとうしたいと信じていた。しかし意識の底では死んで無になることへの願望が流れているらしいことを、はじめて意識させられた。これこそ気の持ちように過ぎないとわかっていても、そういう自分をはじめて発見して、落ち込んだ。しかし、諦めや逃避にはしりがちな自分自身の性向が、そういう性分に根ざしているらしいことがわかったのは、収穫であった。
この性質とどうやって折り合いをつければいいのかはわかっていない。聞くところによると、それは特段珍しいものでもなく、またそれを治療する心理療法のメソッドも発明されているらしい。しかしまだ、さらにいっぽ踏み込んで自分の心を観察する勇気は持てていない。
この随筆集を手にとったのは、これらを知らされるより前のことであった。冒頭からして憂いにみちみちている気分につい心をひかれたわけで、思えばこれもまた、僕の心性のあらわれであったかもしれない。根深い諦念をもちながらも、漱石は則天去私といって生に殉じた。僕もそうありたい、といえば、これもやはり身のほど知らずか。