1日1万歩を1年間続けた。実のところ平均値にすぎないから表題には誤謬も含むが、誇れる習慣と言えようか。ひとがいつになく運動不足を口にした1年間で、僕はいつになく身体を動かした。
ルーチンはこう。朝、起床してすぐにランニングに出る。雨の日はジムにゆく。体調と環境をみて、3-8kmばかりを走る。これだけではたいてい1万歩には満たない。昼食後、あるいは夕方あたりに40分ばかりの散歩を加えると到達する。勤労日には1時間の休憩時間を15分の食事と長い散歩に分割するのが日常となっている。
さて、そこで得たものはなんだったか?
肉体的な健康が身についた、とひとは言うだろう。実際、この1年での減量幅は10kgになる。BMIは軽肥満から標準に戻った。あるいは、苦しいルーチンに打ち負けずに継続することのできる強い意思だとか、成功体験だとか、自己肯定心だとかいうものが身についた、などか。
とはいうものの、それだけのことである。肉体が健康であっても、心が健康でない日々はあったし、そう万事が万事快調でもない。
僕自身の性質として、はっきりとわかったことはある。苦しい習慣を続けることは苦にならない。実のところ、機械的な日々を過ごすほど楽なことはない。自分の決めたルールにのっとって動くだけで、それ以上のことは何も考えずに済むというのは、実に楽なことである。これは禁欲にみせかけて、むしろ堕落に近い。
そういうことをおもうにつけ、この1万歩という意味のない数字で生活を規定することは1年で終わりにすることにした。ずるずると数字に囚われて次の一年を暮らすことになるのがおそろしい。
目標を立ててそれを遂行することは美徳、そしてそれができるひとは善とみなされる。善行によって死後に救われるのであればまだしも、実際のところいつ風邪をこじらせて死ぬともわからない時代に、そんなことをしてなんになるのか。どうせ死ぬのであれば、徹底的に身体を破壊して滅びていくほうがよほど人間らしく美しくはないか。なんらの社会貢献も考えずに、映画をみて本を読んでゲームをして食って寝て肥満するだけの生活をしていた若い日々がいつになく懐かしい。
そういう脱出願望を心に秘めていながら、人生の目的を考えはじめると気が触れそうになるので、何も考えなくていいように身体を動かすのだろう。身体を鍛えて、健康を守る。この悪習から足を洗うことは、それを継続するのと同じだけ難しい。