世界がいまより平和になったらやりたいことがある。それはそうとして、いますべきことはなにか?

 大学にはいりなおすということを考えたことがある。ベルリンから帰国して、途方にくれながら次になにをしようか考えていた頃のことである。直接的な刺激になったのはこの記事だったかとおもう。

僕の会社のとあるプロジェクトで、スケジュール管理を扱う新サービスの検討が始まったとき、CTOを含む複数のエンジニアが即座にホワイトボードでアルゴリズムの議論を始めました。スケジュール管理は複雑な組み合わせ問題になることが多く、また我々が考えていたシステムが少し特殊な制約を持っていたので、計算結果の単純なキャッシュがしづらい難問であることは明白でした。 複雑な現実課題を解決するソリューションには、ありもののライブラリやフレームワークなどというものは存在しません。それぞれが自分の中に持った基礎的な道具を持ち寄って、その場でしか使えない「特別な鍵」を作り出す必要があります。基礎力のない応用はありえないのです。

「ありもののライブラリやフレームワーク」を使うのが仕事であると言わざるをえない自分自身の無力と向き合っていた時期であったので、とかく深く心に刺さったのだとおもう。

 その後、 Nand2Tetris とか DDIA を読んだり、競技プログラミングもたしなむようになり、いくらか視野は広がった。しかし一年でこれしか進歩していないとおもうと、もっと頑張れるはずとも思っている。

 仕事では「ありもののライブラリやフレームワーク」を使った仕事をあいかわらずやっているわけで、そこに物足りなさを感じる瞬間がないとはいえない。とはいえ霞を食べながら勉強するだけの覚悟はなかったわけで、そこを嘆いても仕方がない。

 こうして言い訳めいた言葉が出てくるということ自体からして、勉強がしたいという熱情は否定しがたいのだとおもう。知識に投資するのであれば早いに越したことがないのは真理である。

 もう少しお金がたまったら…とか、先延ばしにする理由づけには事欠かないのだが、それではいけないだろうと自分を戒める。大学に再入学するプランを立ててみよう。実際に入学に漕ぎつけられるかどうかは別として(入試をパスできるかどうかすらもわからないのだし!)、どうやって学校選びをして、どうやってその後の進路をデザインするか、まで考えてみよう。考えるだけなら無料であるわけだし、それによってやることがはっきりすれば、いまなにを勉強すべきなのかもよりクリアにみえ始めるはず。